世界中が「他者との共存」を拒否し「離脱」を求め始めた現代について

1989年から世界はこんなに変わった
山崎 望 プロフィール

これらの人々は閉ざされた壁の向こうに広がる自由の海に飛び込むよりも、自由がもたらす格差、貧困、共同性や自己決定権の喪失に抗い、新たな壁を築く国家や共同体を追い求める。壁の内側では、慣れ親しんできた生活様式を掘り崩すような自由は追放され、自分達の脅威となりかねない見知らぬ他者と出会うこともない。不愉快さや違和感、さらには恐怖感をもたらす他者のいない、純化された「われわれ」が守られることになる。

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「自国民優先主義」と批判されようと、排外主義と批判されようと、そこに自由主義からの離脱を願う人々の声(voice)があることは確かである。この点では欧州の右派勢力も、アメリカのオルタナ右翼(オルト・ライト)も、ロシアのナショナリストも、アジアの排外主義者も、日本のレイシストも一致している。

 

民主主義からの「離脱」

他方では、民主主義からの離脱を試みる人々もいる。グローバルな市場に君臨するGAFAに象徴される超国家的な企業にとってみれば、自分達の経済活動を国境に縛り付け、自由を制約する決定を行う民主主義は「足かせ」に過ぎない。そもそも企業が統治する領域と民主主義の相性は悪い(E・アンダーソン『プライベート・ガバメント』)。

労働組合の組織率の低下が恒常化する世界で、社長を全従業員の投票や熟議によって決定すべき、と考える企業は少ないだろう。労働環境から経営方針に至るまで、社員もしくはステークホルダーで民主的に決定すべき、と考える人々の声はまだ弱い(松尾隆祐『ポスト政治の政治理論』)。

むしろ、シリコンバレーのスタートアップ起業家であるC・ヤーヴィンのように「自由と民主主義は両立しない」という確信に至り、民主主義からの離脱(exit)を求める人々もいる。彼らの考えは、超国家的な企業群から成り立つ諸都市を中世のように専制君主が統治する「新反動主義」として着目されている(木澤佐登志『ニックランドと新反動主義』)。

これらの民主主義からの離脱を求める企業も、自らの活動にとって障害物のない、純化された「われわれ」による場を求めている。そこには、自分達の経済活動の妨げになるような意見を持つ他者との共存から逃げられない、民主主義という制度は存在しない。

多様性が称賛されるとしても、あくまで経済的な利潤の追求や「生産性」のための多様性であり、それに貢献しない多様性は歓迎されない。実際、多様性を謳う企業内で、貧困者や能力の低い人の姿を見つけることは難しい。民主主義から離脱する人々が求めるのは「民主主義なき自由主義」の世界である。