故・日野原重明さんは、あの「地下鉄サリン事件」でどう行動したか

83歳で遭遇した極限状況
週刊現代 プロフィール

「救える人を救うのは当たり前じゃないか」

こうして、トップとしての決断が必要な部分で的確な指示を出すと、あとは部下たちに任せて、病院内を飛び回った。

「外部に対する情報の公開も迅速でした。混乱している患者さんや一般の人たちに向けて『いま、何が起きて、どこまでわかっているのかをすぐに伝えなくてはダメだ』と、10時半には緊急の記者会見を開いた。

運ばれてきた患者さんたちに向けては、状況を説明した小さな紙を作って随時配布していました」(奥村氏)

この一日だけで聖路加国際病院は640人の患者を収容、事件後1週間で対応した延べ患者数は、約1600人にのぼった。

 

のちに病院のある日比谷線の築地駅は、小伝馬町駅、霞ケ関駅に次いで多くの被害者が出た駅だったことが判明する。全病院をあげて患者を受け入れるという日野原氏の見事な決断がなければ、犠牲者はもっと増えていただろう。

「あとになって『いろいろな病院に分散して治療するのが正しかったのではないか』と批判する声もありましたが、日野原先生はどこ吹く風という感じでした。『緊急時に救える人を救うのは当たり前じゃないか』という感覚だったのだと思います」(奥村氏)

そしてこの経験は、日野原さん自身のその後の人生にも大きな変化をもたらした。
翌'96年に院長を退き、理事長に就任すると、自らの経験を世の中に伝える活動に精を出すようになったのだ。

生前、日野原さんが死の直前まで連載を続けていた雑誌『ハルメク』の副編集長・岡島文乃氏が回想する。

「晩年まで信じられないような過密スケジュールの中で仕事をされていました。内科医として診療の現場にも立っていたし、各地で講演もたくさん入っていた。

『医療の最新情報はやっぱり向こうに行かないと手に入らない』と、年末にはかならずアメリカに出張もされていた。あまりにもお忙しいので、お昼ご飯のあいだや、移動中の車内などで話を聞かせていただくことも度々でした」