丹波哲郎さんはなぜ、75歳で「大霊界」への没頭をやめたのか

死を人一倍考え、恐れていた
週刊現代 プロフィール

「ただアメリカ映画の『ゴースト』(死んでしまった男性が、霊になって恋人を守る作品)を親父に見せた時はズッコケましたよ。『見たほうがいい』って勧めたら見に行って、『俺は、本当はああいう映画を作りたかったんだ』って言う(笑)。

『「大霊界」と全然違うだろう。俺も、ああいう主役をやりたかったよ』って言い返しましたけど」(前出・義隆氏)

自由に気ままに、昭和を代表した大スターらしく奔放で豪放に生きたように見える丹波さん。しかし、本当にそれだけだったのか。

 

誰よりも死を恐れていた

丹波さんが人生の後半において、のめり込むように霊界の研究や紹介活動に没頭していった背景には、彼が秘めてきた意外な一面があった。

義隆氏が語る。

「今になってみると、親父は自由奔放に遊ぶ一方で、実際は誰よりも臆病で、『死』を怖がっていたんじゃないかと思うのです。特に親父の母親、僕から見て祖母が亡くなったときくらいから、それが激しくなった。

それまで親父は、『あの世が本当の世で、この世は仮の世に過ぎない。だから死んだら誕生日みたいにおめでとう、とケーキに蝋燭を立てて拍手してやらなければいけない』なんてうそぶいていた。

ところがいざ自分の母親が死ぬと、親父は嗚咽して遺体にすがりついた。とてもじゃないけど拍手して、おめでとうなんて言う余裕はなかった」

死への人一倍の関心と畏れ。それは丹波さんが戦争を経験していたことと無縁ではないだろう。

丹波さんは中央大法学部2年だった'43年12月、学徒出陣をした。態度が生意気と思われた丹波さんは、上官たちから連日のように殴られたという。そして数多くいた同期たちは戦況悪化の中、次々と戦死していった。

航空隊の一員だった丹波さんは、特攻隊員になる可能性もあった。極限状態の中、「死は怖くない」と自分に言い聞かせ続けなければ、正気を保つことはできなかった。

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