そんな事実を知ってか知らずか、日々不健康な生活を送るアラフィフの物書きが、なんのトレーニングもしないまま、フルマラソンに挑戦した。果たして彼は、なぜそんな暴挙に出たのか? そして、その結果、どんな悲惨な結末を迎えたのか?
「売れたい」——きっかけは願掛けだった
僕は齢51歳。立派なおじさんである。いや違うな。色々と人生経験を積んできたつもりだが、なぜだかよく叱られるおじさんだ。
文章を書くことを生業とする作家だが、今のところは負け組だ。一発逆転を狙ってベストセラー作家になることを夢見て、日々、パソコンのキーボードを叩いている。51歳となった今も、まだまだあきらめてはいない。
沖縄に移住して早10年。あっという間だったが、毎年正月に誓うことがある。
「今年こそ那覇マラソンに出よう」
年始の誓いは今まで一度も守られたことはなかった。
沖縄には、数々のマラソン大会があるけれども、“那覇マラソン”だけは特別だ。3時間余りのテレビ生中継があるなど、12月のビッグイベントとして沖縄本島全体での盛り上げ感が半端ない。参加人数も2万5千人を軽く超え、日本で開催されるマラソンのなかでは、東京シティマラソン、大阪マラソンに次いで3番目の参加人数であり、市民ランナーにとってはかなりのメジャー大会らしい。

僕が今年こそは那覇マラソンに出ようと決心したきっかけは、那覇マラソンで完走すれば本が売れると思ったから―−いわば願掛けのつもりだった。51歳の僕は、まさに岐路に立っている。願掛けへの思いは強いはずだったが、なんだかんだで当日まで一度も練習をせず、情報も集めない。でも、気合だけは十分。「まあギリギリ走りきれるでしょ」と本気で思っていた。
マラソン当日。制限時間は6時間15分以内であり、21.3キロと34.3キロの2箇所に制限時間を設けてあることを知る。
快晴のなか、午前9時、那覇市の奥武山運動公園を一斉にスタート。
とはいえ、2万人を超えるランナーがスタートするのだから、最後尾近くにいる僕がスタートラインを越えたのは、号砲が鳴ってから20分以上が経過してからだった。
これから一旦北上し、那覇市の中心街を回ってから南下。南風原市、八重瀬町を経て、平和祈念公園を目指し、糸満市、豊見城市を通って、運動公園へ戻ってくる。
沿道にはたくさんの人たちが色華やかに応援をしている。普段、車が途切れることがない国道58号線を悠々と走るのはとても爽快だ。沿道の人たちの暖かい声援を受けていると、まるで自分がオリンピックのマラソンランナーになったような気分になる。上々だ。
3キロ地点までは走っていて気持ち良かった。ところが、4キロを過ぎたあたりで、だんだん気持ちが悪くなってきた。
「4キロってことはあと38キロ!? 9倍以上も走らなあかんのかぁ」
急に現実に引き戻された。
とにかく、10キロまでは絶対に歩かないことを念頭に、呼吸を整えながら走った。早く10キロ地点来い、早く10キロ地点来い、呪文のように唱えながら走る。長い上り道を下った付近に10キロ地点があった。
「やったー、これで歩ける」
まるでゴールをしたかのように、僕は見えないテープを切った。そこからはちょっと走っては歩きの繰り返し。今まで走り続けていたのに一旦歩くと、再び走るのがしんどい。周りを見渡すと、まだまだみんな序の口のような顔をしてどんどん僕を抜いていく。
そうこうするうちに、シューズに違和感を覚えた。右足のソールが剥がれかけている。「やべ」と思ったが、もう遅い。意識がソールばかりに向く。
「もうすぐ交通規制を解除致しますので、みなさん歩道の方へ移動してください」と、アナウンスする最後尾車が近づいてきた。
「おいおい、マジかよ……」
なんてこった。さっきまでオリンピックマラソンランナーだったのに、歩道で通行人に注意しながら走るなんて。これじゃ、普通にランニングしてるおじさんだ。情けない。
なるべく応援してる人たちの視界に入らないように、コソコソと走る。すると突然!
ズキーン!!!
左膝に痛みが走った。