天才・松本人志の「限界と今後」日本人の笑いにもたらした功罪

彼が日本の「笑いのお手本」となった理由
瀬沼 文彰 プロフィール

視聴者と同じ立場だと庶民派ぶる芸人も多いものの、視聴者は欺かれない。バラエティ番組の芸人を自分よりも下に見て、いつでも優越感で笑いたいわけではないが、だからと言って芸人を「格上」だと認め、芸術を鑑賞するように日々お笑いを観るのも疲れてしまう。

地位が上がりすぎてしまった芸人よりも、もっと身近な一般人や自分に近そうな有名人が出演する、YouTubeやTikTokで笑った方が気楽だ。誰でも、自分とかけ離れた立場の人には、感情移入はしにくい。

近年、若者の「笑い」がこうした動画投稿メディアに移行している背景には、こうした心理もあるのではないか。いまや普通の視聴者にとっては、芸人を連日連夜見るよりも、年に1回「M– 1」や『笑ってはいけない』を見て笑う程度がちょうどよくなってしまった。

 

日本人の「お笑い疲れ」

前節で論じた3つの論点は、芸人、テレビ局、プロダクションといった作り手と、視聴者の間に溝を作る要因ともなっている。このような現状がはっきりと見えているにもかかわらず、いまだにテレビ局は、どのジャンルの番組でも芸人に頼りがちだ。

作り手からすれば、芸人はアドリブ力もあるし、場を笑いで盛り上げてくれるし、使いやすいことは間違いない。しかし、芸人ばかりがあふれるテレビを視聴者は食傷気味だ。

また、松本だけに限らず、大御所と言われる芸人全般にあてはまることだが、「よいしょ体制」があまりにも透けてしまっている点も、両者のズレを生んでいる。

「おもしろくなければならない」松本の笑いに対して、身内である芸人たちが敬意を払うことは十分に理解できる。しかし、一般人もいっそうコミュニケーション能力が要求される社会では、こうした光景は、自分が日常的にする上司へのよいしょを見ているようで、笑えるというより、どこか虚しく冷めてしまう。

「お笑い疲れ」という指摘も出ている。TBSラジオの『東京ポッド許可局』で、マキタスポーツ、サンキュータツオ、プチ鹿島が、「尖った笑い論」を論じていた。彼らは、2019年のキングオブコントで「どぶろっく」が下ネタを使って優勝したことを取り上げ、「お笑いのことを知り過ぎた視聴者は、高度なリテラシーを手に入れた結果、『お笑い疲れ』になりつつあるのではないか」と指摘した。

こうした風潮は、確かにありそうだ。その意味では、緻密に作られる松本の笑いも「疲れる」対象になっているのかもしれない。

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