天才・松本人志の「限界と今後」日本人の笑いにもたらした功罪

彼が日本の「笑いのお手本」となった理由
瀬沼 文彰 プロフィール

だが、その毒は、ポリティカル・コレクトネス(以下ポリコレと書く)の前景化で、批判の対象へと変化した。ビートたけしのように、その毒に説得力があったり、社会の本質をえぐる力があったりすれば、批判や炎上は抑えられるものの、松本の発言からは、そうした含蓄があまり読み込めない。

ポリコレの重要性が高まれば高まるほど、毒への規制も強まり、松本の面白さは削り落とされていく。ポリコレに逆らう姿勢や破天荒さがあれば、カリスマ性は維持できたのかもしれないが、テレビのなかで生き続けていくためには、規制のなかで発言するしかない面もある。

毒が薄まっていく流れのなかで、魔法から醒め、過去の面白さと照らして「松本はつまらなくなった」と主張する松本信者もいる。これもまた、アンチ松本を生む要因の1つだ。

 

3つ目は、芸人と視聴者の関係の変化である。

社会学者の太田省一は、『芸人最強社会ニッポン』のなかで、かつて芸人全般が河原者や河原乞食などと差別される対象であったことを論じたうえで、芸人たちがテレビとの結びつきのなかで徐々にその社会的地位を上げ、80年代の「ビッグ3」の登場と活躍により身分が飛躍的に向上し「理想像」にまでなったこと、そしてその後、芸人たちがキャラ化する過程で一般人のコミュニケーションの見本となったことを指摘した。

太田の芸人史について異論はない。だが筆者には、現在、芸人たちの地位はあまりにも高いところにいきすぎてしまっているようにも思える。

才能、努力、収入、モテ、コミュ力──さまざまな面での格差社会が指摘される昨今、視聴者から見たトップ層の芸人は、名声を得すぎてしまった。そうした笑いのヒエラルキーのトップに君臨する松本となれば、なおさらだ。

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