人類のあらゆる試みに「理由」を求める人とそうでない人の違い

失われた小説をもとめて【6】
小説デビュー後、筆が動かなくなり、車で日本最北端を目指す旅に出た藤田祥平さん。大阪を出発し、北海道へ。宗谷岬や室蘭を経由し、岩手県の陸前高田にたどり着く。そこで見た光景とは?

【第一回:新人小説家は期待に押しつぶされ、大阪から日本最北端へと逃げ出した】

多くのひとが放置する「問い」

「すべての問題は、生まれてくることを選ばなかったところにあるのです」と私は言った。「私の考えでは、人類のあらゆる試みは、この事実を反駁しようとするむなしい努力でしかありません。この痛みや苦しみ、あるいは曇りの日の一条の日差しのごとく唐突な幸福感に、私たちはなにか理由がなくてはならないと思うのですが、それを見つけることはできません。なぜなら私たちは死を体験することができず、そのために生に結論を下すことができないからです。この問いは宙づりのままビーカーの溶液のなかに浸されていて、時間という触媒が冷酷に働き、問いといっしょに観察者の生までが溶けていってしまう。なぜなら、その問いこそが我々だからです」

カフカはホットワインをすこしずつ飲んでいた。シナモンの香りがした。

「いったい、誰がこんな奇妙な系を作ったのですか? あなたはご存知ですか? なぜ私たちは犬のように死なねばならないのですか?」

「いや、ぼくは知らない」と彼は言った。「話を続けてくれるかな。聞きながら考えてみるよ」

 

「その答えをもとめて、いろいろな本にあたったのです」と私は言った。「子供のころ、私は人類に期待していました。とてもたくさんのひとが、なにか確固たる自信をもって自分の仕事にあたっていたからです。彼らは自分の仕事がひとびとの助けになると信じ、ひじょうに熱心に物事にとりくんでいました。彼らは見上げた、すばらしいひとびとでした。いつか大人になり、私も仕事をすることになったら、彼らとおなじように自信をもって職務にあたろうと思っていました。そして大人になり、私は作家になったのですが――これはあなたにも礼を言わなければなりません、私はあなたから多くのことを学びました――私は自分の仕事に、まったく自信をもつことができませんでした。なぜか? 肝心な問いが答えられていないからです。なにもかもが過ぎ去ってしまう、昼食のあとのコーヒーの味のようにすべてが過ぎ去っていく、あっというまに痛みや苦しみや老いがやってきて私たちを殺してしまう。……なぜ?」

「うん」と彼は言った。

「にもかかわらず多くのひとはこの問いを放置したまま、部屋のなかにいる死という象を無視したまま、あっけらかんと仕事をしている。どの本を紐解いても、答えは書いていない。にもかかわらず、この本は面白い、この仕事はすばらしいと延々やっている。私には、どうしてもそのことが理解できないのです。なぜ人類は恐慌に陥らないのでしょう? なぜ私たちはこの大いなる遅延のなかで漫然とまどろんでいるばかりなのでしょう? 私もまどろもうと何度も試みました、問いを放っておいて、ともかく仕事をしようと思いました。でも、できないのです。どうしてもその問いのことばかりが頭から離れないのです。キャラクターをつくり、お話しをつくり、彼らを現世に押し出したところで、それがいったい何になるというのでしょう。彼らが固有の浮き沈みを体験し、固有の事件を体験し、凄惨な運命あるいは永遠の幸福を辿ったところで、いったいなんの甲斐があるというのでしょう。物語芸術は、肝心な問題から目をそらすためのクラウン・フィエスタ(道化の宴)でしかないように思うのです。とにかくもこの問いに答えを出さないかぎりは、あらゆることが時の流れのなかでさび付いていくばかりなのです」

カフカはおおきな瞳をぱちぱちと瞬きしてから、ゆっくりと言った。

「それは、書きながら考えるほかないと思うよ?」

私は気絶した。泥酔していたのである。