2月 4日 咸臨丸、太平洋横断のため品川出航(1860年)

科学 今日はこんな日

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1860年のこの日、旧暦の安政7年1月13日、江戸幕府の軍艦「咸臨丸」が品川沖を出航しました。 渡米目的は、日米修好通商条約批准書の交換でした。

咸臨丸の概要と構造

咸臨丸は、1853年、アメリカ海軍のペリーが黒船を率いて浦賀沖に姿を現したことがきっかけで、鎖国をしていた徳川幕府が海軍創設の必要性を痛感し、オランダ政府に注文した軍艦です。

オランダの風車で有名なキンデルダイク(Kinderdijk)で建造されました。その時の艦名は、「ヤパン」(Japan)。「咸臨丸」という名前は、引き渡し後の命名です。中国の経典『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味するそうです。

洋式軍艦としては、すでにオランダから1855年に贈呈された観光丸という洋式軍艦がありましたが、こちらは外輪推進式の帆装船。咸臨丸は日本で初のスクリュー装備船でした。船体長48m、最大幅8.74m、高さ5.6m、重さ620トン、石炭炊きボイラー、100ps機関スクリュープロペラ装備の木造汽船(コルベットと呼ばれる小型軍艦)で、3本マストのうち船首側2本が横帆で船尾側マストが縦帆のバーク式帆装船でした。

【イラスト】HMS Egelia
  同時期のバーク式帆装艦の例(咸臨丸よりやや大型のイギリス海軍"HMS Egeria")。主マスト3本のうち、最後尾のマストが縦帆 photo by gettyimages

初の西洋式外海航海は指揮系統が混乱!?

1855年(安政2年)に開設された長崎海軍伝習所で練習艦として使用され、5回にわたる九州近海を巡航する航海訓練が行われています。長崎伝習所は1859年5月(安政6年4月)に閉鎖され、江戸の軍艦操練所に引き継がれ、咸臨丸も江戸へ移されました。

1860年(万永元年)に、日米修好通商条約の批准書交換のため遣米使節が派遣されることになり、使節団の渡米はアメリカ海軍ポーハタン(USS Pawhatan)に乗艦することになりました。その際に、長崎海軍伝習所以来の操艦技術を遠洋で試すために、随伴艦として咸臨丸も派遣されることになりました。

長崎海軍伝習所の取締から軍艦奉行に昇進した木村芥舟(きむら・かいしゅう、1830-1901、摂津守)がリーダーとして着任していました。木村と同じ時期に長崎海軍伝習所の伝習生で、帰京後は軍艦操練所教授方頭取を務めていた勝 海舟(かつ・かいしゅう、1823-1899)も乗艦することになりました。

ほかに、通訳のジョン万(萬)次郎(ジョン まんじろう、John Manjiro、1827-1898)、木村の従者として福澤諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835-1901)ら、90余名が乗り組みます。

木村と勝の役割や、乗組員の指揮系統などは不明朗であったとも言われています。一般的には、ジョン万次郎が通訳していた木村が「提督」、勝が「艦長」とされています。

指揮系統の混乱ぶりをも載せて、咸臨丸は1860年の今日、品川を出帆したのです。

試される日本人乗組員

また、航海は、後に福澤の「日本人の手で成し遂げた壮挙」という自賛が広く知られることになりましたが、実際には日本側の依頼によって同乗した米海軍のジョン・M・ブルック大尉(John Mercer Brooke、1826-1906)とその部下10名の航海術に負うところが大きいものでした。ブルック大尉は、当時のアメリカ海軍で最も北大西洋航路に熟知していた士官でした。

ブルック
  ジョン・M・ブルック大尉 photo by gettyimages

冬の北太平洋の暴風雨に翻弄されながらも、37日の航海でサンフランシスコに無事到着。航海で損傷した咸臨丸は、当時太平洋側唯一の海軍造船所だったメア・アイランド造船所(Mare Island Naval Shipyard : MINS)において無償で修理され、その間、一行はさまざまな体験をし、見聞を深めます。

【写真】サンフランシスコを描いた絵葉書
  19世紀のサンフランシスコを描いた絵。咸臨丸一行は、サンフランスシスコ市民から熱狂的な歓迎を受けたという photo by gettyimages
【写真】咸臨丸が補修を受けたメア・アイランド造船所
  咸臨丸が補修を受けたメア・アイランド造船所の現在。現在は海軍工廠としての役割を終え、資料館となっている photo by gettyimages

帰路はハワイ経由で航行し、天候にも恵まれました。アメリカ滞在中に得た知見に加え、往路の反省もあり、往路で助けられた水夫のうちから雇った5名のほかは日本人の操船で航海することができました。

咸臨丸の後半生

太平洋横断後は幕府の練習艦として用いられ、また1861年のロシア軍艦の対馬占領事件に際して派遣され、翌年の小笠原諸島にも派遣されました。調査団は、父島・母島で詳しい探検・測量を行い、幕府はそれに基づき諸外国に小笠原諸島の日本領有権を通告しています。

【写真】小笠原・父島の二見港
  父島・二見港付近からの眺め。1862年、咸臨丸は調査団を乗せて小笠原に派遣された。現在は、おがさわら丸(写真左下)が父島へ旅客や物資を運ぶ photo by gettyimages

戊辰戦争後は、明治政府に接収され、北海道開拓使の輸送船となって物資や官吏の輸送などを担いました。1871年、北海道に移住する仙台藩白石の片倉家家臣団400名あまりを乗せて松島湾を出港した咸臨丸は、函館から小樽へ向う途中、木古内のサラキ岬(北海道木古内町)で暗礁に乗り上げて座礁し、乗員は全員無事救助されたものの、咸臨丸は沈没してしまいます。

1984年にサラキ岬で鉄製の錨が見つかり、2004年に咸臨丸のものと断定されました。サラキ岬には、咸臨丸終焉を示す碑、モニュメントなどが設置されています。