通りに張り出た遊郭特有の部屋=「上見世」。客は通りから中を眺めて娼妓の“品定め”をした(撮影/花房麗子)

かつて、ここは遊郭だった…青森・新むつ旅館と遊女たちの悲しき青春

男たちに“品定め”され…

売りに出された娘たちが

「やませひと吹き女郎三人」

昔、青森で言われた言葉だという。夏の間、オホーツク海上で成長して東北太平洋岸に吹きつける、霧雨を伴った偏東風。地を這うように吹きつけるこの風が猛威を振るうと、気温は時に5度近く下がって田畑の作物が枯れ、農民は困窮し、いよいよ年貢が払えなくなれば娘を売りに出すしかなくなった。彼女たちの行く先の多くは「花の街」……遊郭だった。

盛岡の南部本家から分かれた八戸(はちのへ)藩は2万石という小藩で、代々の藩主は天守を構えることもなく、土居のうちに館を構えて住んでいた。藩主と藩士の住む城下町はいまの八戸中心街で、そこから湊街道と呼ばれる1本の道が海に向かって伸びている。

新井田川にかかる湊橋から外海方向を望む。江戸時代、この橋の西側(写真左手)が小中野表通りと呼ばれる一大花街だった
 

江戸からの東廻り船が沖の蕪島(かぶじま)に停泊し、小舟を使って荷揚げをした。その水夫の世話をした「洗濯女」と呼ばれた女性たちが遊女としても奉仕するようになり、港街道沿いの小中野の表通りに〝船宿〟という花街が発生したという。

明治になって、政府は「芸娼妓解放令」を出すが、それは西洋諸国にたいしてのポーズのようなもので、遊女屋は「貸座敷」という名に変わって存続した。小中野の遊郭の灯りは明治に入って一層華やかとなる。明治19年、大火に見舞われ、遊郭は表通りから一面の沼地だった小中野新地に移転。その地にいまも当時の面影を残し、旅館業を続ける館が存在する。

新むつ旅館の外観

新むつ旅館。かつての名前は「新陸奥楼」であった。“新”は“モダン”とでも訳せばいいだろうか。しゃれてみえるということで、初代の川村サワエが命名したという。

車が行き交うのがやっとという周囲の住宅街の道とは違い、目の前の道は不自然なほど広い。しかも、200mほどの大道は、新むつ旅館の少し先で行き止まる。盛時は道の両側に18軒、その筋違いも合わせると36の楼が軒を連ね、楼への飲食を提供する料亭や射的場がひしめいていたというから、浜の漢たちにとって、ここはアミューズメントパークの目抜き通りのようだったのだろう。