同調圧力

みっつめのちがいは、「みんなと同じ程度であるほうがよい」という同調圧力の有無だ。日本ではみんなと同じ見た目、能力、考え方が「よい」とされる。金髪でIQ200、常人には理解できない斬新なアイディアを次々と発表する人がいたとして、そういう人が評価され、居場所を見つけるのは、なかなかむずかしい。

みんな同じ程度でいることに安心する精神構造をしている人からすれば、平均値を上げる人は正直迷惑でしかない。その人のせいで、自分が「下」になってしまうから。全員手繋ぎゴールを前提とした社会では、一人勝ちは許されないのだ。

だから、平均より上にいる人は、「いえいえわたしなんて。調子に乗っていませんよ」とアピールしないとすぐにつまはじきにされる。まじめに勉強していい成績を収めた優等生が、「ガリ勉」とバカにされるのと同じだ。

勉強が好きだとか勉強やりたい、それは素晴らしいことなのに Photo by iStock

でもドイツでは、自分は自分であり他人は他人。友人がどんな成績をとっていようとも、絶対評価であるかぎり自分の評価は変わらない。相対評価であっても、友人が出した結果はその人のものであり、自分のものではない。そこで話は終わり。

限られた枠のなかで争う場合は別だが、他人は他人なので、幸福度の競争のような考えはあまり感じない。

「幸せでごめんなさい」
なんて思わなくていい

このあたりが、わたしが日本とドイツでの経験を踏まえて思う、「幸せ自慢へのリアクションがちがう理由」だ。

とはいえこれはあくまで「ちがい」の話であって、「優劣」の話ではない。日本にだって他人の幸せを祝福する気持ちをもっている人はたくさんいるし、ドイツにだって他人のポジティブな話に水を差してくる人はいくらでもいる。

ただ、みんなが口を揃えて「わたしは幸せなんかじゃありません」と言わなきゃいけない社会より、笑顔で「人生楽しんでるよ!」と言える社会のほうが、わたしは好きだ

「ため息つくと幸せが逃げちゃうぞ〜」なんて表現があるが、本当にそう思う。家族や仕事の愚痴を肴にお酒を飲むより、お互いの幸せな話を聞きながら乾杯したほうが、おいしいお酒を飲めるはず。

自慢話ばっかりすることがいいとは思わないし、だれだって愚痴りたいときはある。でも、「幸せ」だと言う人にわざわざ冷水をぶっかける必要はないし、「幸せでごめんなさい」と罪悪感をもつ必要もないだろう。

いいものはいい。おめでとう。やったね。

笑顔で他人の幸せを祝福できる程度の心の余裕は、つねにもっておきたいものである。