「SF」は「サイエンス・フィクション(科学小説)」の略だが、狭義の科学の枠組みから自由な思索を許す意図で、「スペキュレーティブ・フィクション(思弁的小説)」の略だと言われることもある。そして、『ドラえもん』の著者である漫画家の藤子・F・不二雄氏は、自作のSF短編群における「SF」を「すこしふしぎ」の略だと述べた。
これら3つの「SF」の理解は、とくに矛盾するわけではない。もちろん、SF作品ごとにどんなSF性が強いかは異なっているし、SFファンごとにどんなSF性が好きかも異なっているだろう。しかし、科学的であり、思弁的でもあり、すこしふしぎでもあることは可能であって、いくつかの優れたSFは、私にはまさにそのようなものに見える。
そして、SF的なテーマを扱った学術的な議論においても、これら3つのSF性が並立することは可能だ。たとえばタイムトラベルに関して、それを科学的に検討し、その検討を大切にしつつも哲学的に他の可能性を思弁し、この議論の全体に「すこしふしぎ」を感じることはできる。『タイムトラベルの哲学』という本の執筆時から20年近く、私はこの試みを続けてきたが、3つのSF性のどれについても汲み尽くせないものがまだまだある。
SFにおけるガジェット(小道具)として、タイムトラベルほど一般に膾炙したものはないだろう。本稿ではタイムトラベルを素材にして、先述した3つのSF性をもつ議論の一例を示したい。そうした例を見ることは、SFの他のガジェットを論じる際にも役に立つに違いない。
ところで、タイムトラベルを論じるというと、こんな反応をする人がいる。「タイムトラベルなどできないのだから、そんなことを論じても仕方がない」。「過去をやり直せるようになると、いまを大切にしなくなるから、タイムトラベルはできないほうがよい」。
これから確認するように、この2つの反応はいずれも不適切である。というのも、タイムトラベルのある種のものは実現可能であることがすでに分かっているし、他方、タイムトラベルが可能であることが「過去のやり直し」を可能にするかどうかは、一概には答えられないからだ。
じつのところ、タイムトラベルとは何であるかについての各人の理解はバラけており、タイムトラベルを論じる価値があるかどうかは、そこを整理しない限り、はっきりしない。
タイムトラベルを分類せよ、という課題には、いくつもの回答がある。たとえば、人物のタイムトラベルとそれ以外とを分類することができ、後者はさらに、通常の物体のタイムトラベルとそれ以外(情報のタイムトラベルなど)とに分類できる。
もちろん、これらの分類をより細分化することも可能だ。そして、なかでも次のようなものが、とくによくある回答だろう。タイムトラベルをする主体は、通常の時間経過ではたどり着けないある時点に到着するわけだが、その到着時点が未来ならそれは未来へのトラベルであり、過去ならそれは過去へのトラベルである──。
タイムトラベルの行先が未来か過去かによる分類。これは明快なものに見え、事実、きわめて多くの機会にこの分類は使用されている。だが、この分類は本当は、見た目ほどすっきりとしたものではなく、タイムトラベルとは何かを考えていくにつれ、「未来に行く」あるいは「過去に行く」という表現の曖昧さが気になってくる。
ある場所から「東に行く」とは、出発時点より後の時点で、出発場所より東にいることだ。では、「未来に行く」とは? 出発時点より後の時点で出発時点より後にいること?