家族が「贅沢品」になる時代……誰が“個人”を守るのか?

『家族を想うとき』が描く非情な現実
河野 真太郎 プロフィール

「おれはおれだ。ほかの誰でもねえ。」 

『土曜の夜と日曜の朝』の主人公アーサー・シートンは自転車の部品工場で働く若い労働者。土曜の夜に一週間分の給料を手にすると、一張羅を着てパブに出かけ浴びるほど酒を飲み、同僚の妻と不倫をする日々を送っている。 

この小説/映画は、「怒れる若者たち」(1950年代から60年代の、労働者階級を描く一群の文学者の呼称。ジョン・オズボーンの1956年初演の演劇『怒りをこめてふり返れ』に由来する)の代表的な作家であるアラン・シリトー自身の体験も盛り込んだ、労働者階級の若者の物質的・精神的双方の生活を描いた作品として人気を博した。 

ヤングらの著作と完全に同時代のこの作品では、労働者階級の家族について興味深いことが起きている。 

それを見るために、主人公アーサーは何に対して「怒って」いるのかを確認していこう。 

一般的に、「怒れる若者たち」の「怒り」とは、「われわれ」(労働者階級)の「やつら」(中・上流階級)に対する怒りとして受けとめられてきた。『土曜の夜』のアーサーの怒りも、そのようなものと解釈することはできる。

たとえばアーサーは、死んだばかりの母親のために花瓶がほしくて、葬儀屋のショーウィンドウを割ってしまう貧しい男が軍服を着た女に捕らえられた場面に遭遇する。集まった労働者階級の野次馬もその一人のアーサーも、この女に対する本能的な敵意を感じ、この男に逃げるようにけしかける。「われわれとやつら」という階級感情がもっとも典型的に発露する場面だ。 

 

このことは、家族の問題についても言える。アーサーの不倫は、中流階級的な家族の中での正しい性的関係に対する反抗として見ることも可能だ。 

ただし問題は、この中流的な家族観への「反抗」が、ヤングやウィルモットの発見した「拡張された家族」のコミュニティ感情から発するものなのかどうか、である。つまり、「労働者階級意識」に基づいているかどうかだ。

このことは、アーサーの怒りが本当は何に向けられているのか、という問題とからみ合っている。というのも、アーサーの怒りは、じつのところ支配階級だけに向けられたものではないのだ。 

おれから所得税を取りたてる鼻すすりの薄のろ、家賃をまきあげるやぶ睨みの豚野郎、それに、しょっちゅううるさいことをいうあの頭でっかちもだ。組合集会に出ろとか、ケニヤで起こっていることへの抗議文に署名しろとか。なんの関係があるってんだ!

税金を取る国家(ただし税金は当時の手厚い福祉の原資である)、家主といった支配階級だけではなく、彼は組合の集会に出ろといったり、ケニアのマウマウ団の乱への軍事介入に反対する左翼にも怒りを向ける。ともかく、彼に何かを強いるすべてに対して、彼は怒るのだ。労働者階級の階級意識にもとづく怒りではないのだ。 

このことは、「拡張された家族」としての「ご近所」に対するアーサーの感情にも言える。アーサーが核家族的な価値を否定するからといって「拡張された家族」を肯定するわけでもないことは、彼が、彼の家族が住む通りのゴシップ屋であるブル夫人のおしりを空気銃で撃つという場面に表現されているだろう。

抗議をしに来たブル夫人とその亭主と、今度はアーサーの父が喧嘩を始める。ここには、ヤングらが描いた理想的な「拡張された家族」としてのご近所の姿はどこにも見えない。 

アーサー・シートンの行動原理を一言で言えば、個人主義である。彼がかつて軍隊のキャンプで「おれは何物だ?」と自問して答えた独白「おれはおれだ。ほかの誰でもねえ」はそれをよく表している。彼は労働者階級コミュニティとしての「拡張された家族」も、また中流的な核家族も拒否する。

このような個人主義は、本連載でも論じたメリトクラシーの勃興と不可分なものだろう(→『ハリー・ポッター』は「ルールなき闘争の時代」の教養小説である)。それは競争的な新自由主義に先立って、福祉国家体制のもとで育てられていった。

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