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家族が「贅沢品」になる時代……誰が“個人”を守るのか?

『家族を想うとき』が描く非情な現実


サッチャーが言及した「家族」の意味

「社会なんて存在しません」──これは、マーガレット・サッチャーの「新自由主義宣言」として有名な引用文だ。個人を守ってくれる社会なんか存在しない。個人は自由市場の中で選択と競争をして生きていかなければならない。それがサッチャーのメッセージだった。 

1987年にサッチャーが三選を果たした際に、雑誌『ウーマンズ・オウン』に掲載された談話である。正確に引用すると次の通りである。 

社会なんて存在しません。存在するのは個人としての男女、そして家族だけです。

新自由主義的な個人主義の宣言としてよく引用されるこの台詞だが、社会は存在しない、存在するのは個人だけだというのにとどまらず、サッチャーが続けて「家族」に触れていることの意味は、これまであまり考えられてこなかった。 

イギリスの階級の諸側面を考え、それが現代日本の私たちに何を教えてくれるかを考えてきた本連載であるが、今回は「家族」について考えてみたい。 

 

『家族を想うとき』と家族という孤独 

前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』が2016年カンヌ国際映画祭で最高賞(パルム・ドール)に輝いたケン・ローチの最新作が公開された。邦題は『家族を想うとき』。 

(原題はSorry We Missed Youであり、これは直接には宅配便の不在票に記される「お荷物をお届けに伺いましたがお留守でした」という言葉である。ただし、仕事で家庭からいなくなった父への呼びかけ(「お父さんがいなくてかなしい」)というダブルミーニングもありそうだ。) 

この邦題が示すとおり、この最新作のテーマのひとつは家族である。だが、家族のすばらしさだとか、よりどころとしての家族といった主題を期待する観客は、裏切られるだろう。 

12月13日(金)に日本でも公開された『家族を想うとき』は、『わたしは、ダニエル・ブレイク』と同様にニューカッスル近郊を舞台としている。ニューカッスルは北部イングランドの大都市であるが、1970・80年代以降に従来の重工業(造船や炭坑)が下火になって、不況と失業にあえぐ、典型的なポスト工業地域だ。 

主人公のリッキーは、かつて建築業で働いていた労働者であるが、2008年のリーマン・ショックのあおりで失業。それ以来、職を転々としながら妻アビーと息子・娘の家族と暮らしてきていた。リッキーはフランチャイズの(つまり、「個人事業主」の)宅配ドライバーとして独立することを決心する。1日14時間週2日、2年間も働けば家を買えるという希望をもって。 

ただし、資金のないリッキーは、宅配のバンを購入するために、アビーがパートタイム介護福祉士としての仕事に使っていた車を売らなければならなくなる。宅配は、トイレに行く暇もなく車内でペットボトルに放尿しなければならないほどの過酷なものであった。