なぜ「私」は、同一の「私」でいられるのだろう?

記憶と時間をめぐる謎に迫る
青山 拓央 プロフィール

それは、ヒトの身体が因果関係の結節点だからであり、身体のこのような在り方は論理的には偶然である。

ヒトの身体は──コンピュータ本体だけでなくキーボードやディスプレイなども一体となったノートパソコンのように──ひとまとまりの空間領域にさまざまな機能を詰め込んでおり、知覚情報の入力も、その保存・再生も、さらには身体運動も……、近接した場所で実行する。

 

それゆえ、その空間領域は、ある人物がもつさまざまな機能の因果的な結節点となっており、むしろ、そうした結節点であることが、その空間領域をある一個人の領域とする。

論理的には、目や耳などの入力器官と、その入力情報を処理する脳、さらに手や足などの身体部位が、それぞれ無線で連絡し合うかたちで世界に散在していることは可能である。目は京都に、脳はパリに、手はニューヨークに在る、といった具合に(脳も機能ごとに分割して、違う場所に置いてよい)。

このとき、ある人物を一個人たらしめているのは、空間領域のまとまりではなく、因果関係のまとまりだ。世界中に散在する諸物が1人の「私」を構成するのは、因果的な1つのネットワークによる。

私は「たまたま」の私である

空間領域のまとまりなしに「私」が構成されたとき、対象エピソードの主体とメタエピソードの主体の独立性はより明らかになる。

SF的でない普段の世界にて、「私」がやっていることを「私」がしばしば認識しているのは、前者の「私」と後者の「私」がたまたま近くにいるからだ(たとえば手と目が近くに在るために)。もちろん、ここで言う「たまたま」とは論理的な意味合いのものである。

そして、ビデオカメラのたとえ話は、メタエピソードの主体とそれを想起する主体についても、その一致がたまたまの事実によるものであることを教えてくれる。

もし、ある脳(の一部)で記録したエピソードが──クラウドと電子端末との関係のように──他の場所に在る複数の脳(の一部)で思い出せるようになったなら、その一致は保証されない。

ここでもまた、空間領域のまとまりの消失は、エピソード記憶の土台を揺り動かす。言い換えるなら、因果関係のまとまりのみによって「私」が構成されるとき、エピソード記憶の概念は大きく変質するに違いない。

(注)Kano, F. & Hirata, S. (2015). Great apes make anticipatory looks based on long-term memory of single events. Current Biology, 25 (19), 2513-2517.