なぜ「私」は、同一の「私」でいられるのだろう?

記憶と時間をめぐる謎に迫る
青山 拓央 プロフィール

ビデオカメラのなかには、撮影した映像を再生できるディスプレイが付いているものも多い。では、あるビデオカメラで撮影した映像は、必ず、そのビデオカメラ自身のディスプレイでのみ再生される、という世界を想像してみよう。

このとき、あるビデオカメラ(のディスプレイ)で、ある事件の様子が再生されていたなら、その事件を撮影したのはどのビデオカメラだろうか。それはもちろん、その事件の様子を再生しているのと同一のビデオカメラであるが、このことは、撮影された映像の内容を調べて分かったことではない。

 

そのエピソードが「私のもの」であるとは

エピソード記憶とその想起との関係を、これに類比してみよう。現状、あるエピソード記憶の想起は、そのエピソードを「記録」した(認識して覚えた)脳自身によってしかなされない。

ある脳で記録したエピソードを、その脳とケーブルで繋がった他の脳で想起することは、いまのところできない。そのため、メタエピソードの主体は、それを想起する主体と、エピソードの内容にかかわらず同一であることになる。

ただし、ここで私たちは、対象エピソードとメタエピソードとの違いを改めて意識すべきだろう。想起する主体と同一であるのはメタエピソードの主体であって、対象エピソードの主体については必ずしもそうではない。

そして、次のこともまた意識しておく必要がある。対象エピソードの主体が、たとえ、それを記憶している「私」自身であっても、それだけでは、エピソード記憶が所有されていると見なしがたい場合もあるということを。

たとえば、自分が幼少期に入院したことを(伝聞による)知識としては覚えているが、メタエピソードをまったく覚えていないとき、それがエピソード記憶であると言えるかどうかは疑わしい。

メタエピソードを覚えていないエピソード記憶はあるか(photo by iStock)

なぜ、同一の「私」であるのか

エピソード記憶の大半(定義によっては、そのすべて)において、対象エピソードの主体、メタエピソードの主体、そしてそれらを想起する主体は、いずれも同一の「私」である。「エピソード記憶とは個人的体験の記憶である」と簡潔に言われるときの、「個人的」との表現はこのことを意味する。

では、なぜ、これら3つの主体はしばしば同一の「私」であるのか