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なぜ「私」は、同一の「私」でいられるのだろう?

記憶と時間をめぐる謎に迫る
私の記憶は私のものである。しかしたとえば、幼い頃の口癖を親から聞かされたが、あなたは全く覚えていないとき、その記憶は本当に「あなたのもの」だろうか? 心と時間の不思議に迫った新刊『心にとって時間とは何か』の著者・青山拓央氏が、記憶についての謎を解き明かしていく。

「いつ、どこで、だれが、なにをした」

子ども時代に、「いつ、どこで、だれが、なにをした」ゲームをしたことのある人は多いだろう。

複数の参加者はそれぞれ紙に、いつ、どこで、だれが、なにをした、の4項目について自由な言葉を書く。そして、集められた紙をランダムに見て、各項目の言葉を順に決めていき、全体として奇妙な文章ができあがるのを楽しむ。

 

小学校の1年生でも参加できる遊びだが、改めて考えてみると、そこで行なわれていることは複雑だ。なにしろ、4つの言葉だけで、現実に存在しない状況を脳裏に描き出しているのだから。しかも、そうやって想像された状況に笑うことまでできる(どの文章で笑うかも参加者の多くで一致する)というのは、高度な知的営みと言ってよい。

さらに私たちは、いつ、どこで、だれが、なにをした、の4項目によって、さまざまな状況を仮想できるだけでなく、現実に生じたさまざまな状況を要約することもできる。私は自分の半生を、この4項目からなる文章を連ねて素描することができるだろう。そして、その素描のほとんどは、「私が」を主語とした文章で行なわれるに違いない。

その記憶の主体はだれか?

エピソード記憶の重要な特性は、いつ、どこで、なにをしたかに関わっていることだとよく言われるが、ここで主語(「だれ」)が省かれているのはなぜか。エピソード記憶の対象は、通常、その記憶の所有者自身が経験したエピソードであり、それゆえ、主語である「私」をいちいち明示する必要はない──、これがその答えだろう。

だが、そこで言う「私」とは、あるエピソードを認識した主体としての「私」であって、そのエピソードにおける中心的な行為の主体では必ずしもない

たとえば私は、十数年前、奥田民生さんのコンサートに井上陽水さんが乱入して、『荒城の月』を独唱し、すぐ去って行ったのを覚えているが、このエピソードの中心的な行為の主体は陽水氏である。

他方、私がその乱入を目にしたことに焦点を当てるなら、その主体は私であるが、こちらは、あるエピソードを認識した者としての主体だ。

エピソード記憶の主体はだれ?(photo by iStock)

その記憶の対象は何か?

「メタ」という表現を使用して、同じことをこう言い換えてみよう。〈陽水氏の乱入〉というあのエピソードの主体は陽水氏であるが、私がそれを見たというメタエピソードの主体は私である、と。以下の議論では、メタエピソードの参照先であるエピソードを(いまの例では〈陽水氏の乱入〉を)「対象エピソード」と呼ぶことにする。

エピソード記憶を、エピソード記憶(ヒト以外の動物も所有していることが示唆される、いつ、どこ、なに、に関わる記憶)以上のものとして的確に捉えようとするとき、エピソード記憶の対象は何であると考えられるだろうか。