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「炎上事件」に慣れすぎた、私たちの「不感」社会について

焼かれているのは、我々の社会的関心だ

タイムラインがずっと焼け野原

現在のタイムライン。百貨店・大丸梅田店が試験的に導入した生理中の女性従業員に「生理バッジ」をつけさせる騒動が一段落したと思ったら、東京大学特任准教授・大澤昇平が「中国人は採用しません」などの人種差別的なツイートをしたことで炎上し、その後、差別主義者がよくする典型的に的を外した言い訳によってさらに注目を浴びている……と思ったらついさっき謝罪したようだ。

いっときの勢いはなくなったものの、女性差別に加担しているとされた「宇崎ちゃん」献血ポスターのあれこれの余波もまだまだ油断できない。

インターネットに触れる者にとって炎上事件は不可避のものと化した。ネットに接続するということは、というよりも日本社会で生活するということは、炎を見るということだ。

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ここで念頭に置いていることは、炎上させずに企業アカウントを有効活用していくマーケティング術や炎上防止をふくんだ青少年のためのネットリテラシーがいくら洗練されたとしてもあまり関係ない。仮に個々人が賢くなり、当事者にならずにすんだとしても、炎上の観測そのものを回避することはできない。なぜなら、テレビや新聞の記事ですら取材の労をはぶくためか、ネット発炎上事件が報道される始末なのだから。話題が集中したことがニュースになる。反応に反応する。

毎日私たちは、反応に反応しているさまを延々見せつけられている。「炎上」という物事への注目の仕方、注目の形式が、無視することができないくらい溢れてしまっている社会は、炎上の当事者たちの傷や信用の毀損といったたぐいのこととは一つ上の次元での社会問題を提起しているように思われる。それは、炎上を「見る人々」の問題である。