江戸火災図(モンタ-ヌス『オランダ東インド会社 遣日使節紀行』1669年刊、国際日本文化研究センター所蔵)

オランダ商館長は見た!明暦の大火でも起こった「群衆避難」の大混乱

生存者ワーヘナールの避難記録
「いつ起こってもおかしくない」と言われ、甚大な被害が予測される首都直下地震。都心で生活する大量の人々が一斉に避難することで、大きな混乱や事故が発生する危険性が指摘されている。

実は、このような大混乱は、およそ350年前の江戸でも起こっていた。1657年3月2日に発生し、江戸の中心部のほとんどを焼き尽くした「明暦の大火」である。火災発生時、将軍家綱に謁見するため江戸に滞在していた長崎オランダ商館のザハリアス・ワーヘナールは、未曽有の大火災から逃げのびた避難の一部始終を日記に残している。そこには、いつの時代も変わらず災害に翻弄される人々の姿が記録されていた。

オランダ商館長たちの日記を読み解き、頻発する災害に悩まされた江戸時代を描き出すフレデリック・クレインス氏の『オランダ商館長が見た 江戸の災害』から、オランダ人が見た明暦の大火の模様をお届けする

1657年3月2日、発災

ワーヘナールは家の戸の前に立って火事の状況を観察していた。「火が東側に、マスケット銃の射程内に来ているのが通りのあいだから見えた」とワーヘナールは書く。当時の文献で調べると、マスケット銃の射程はおよそ200~300メートルだったので、自分の身に危険を感じるぐらい、かなり切羽詰まった状況になっていたことがわかる。

 

迫り来る炎を目の前にして、ワーヘナールはさらに続ける。

「私はそれを役人頭に指し示した。彼はすぐに槍を手に取り、戸の前に出た。そして皆がいることを確認してから、我々は皆4時半頃にそこから立ち去った。これで我々は我々の宿とすべての荷物を置き去りにして、すべての物をなめ尽くすこの無慈悲な炎に明け渡してしまった

ワーヘナールの日記に記載されているとおり、オランダ人が宿に着いたのは4時すぎだったので、4時半にその場を後にしたということになると、荷物の整理、屋根に登っておこなった火事の状況確認、土蔵の戸締まりや粘土塗りがすべて30分足らずで済まされたことになる。かなりのスピードである。それだけ危機感があったと言えるのではないだろうか。

「車長持」で大混乱の群衆避難

通りに出てから、役人頭はその部下たちにオランダ人が離ればなれにならないように細心の注意を払うよう命じた。ワーヘナールはその時に通りで見た光景について、次のように書いている。

「しかし、恐怖に怯える避難民たちが大勢いたので、我々はまったく進めなかった。というのも、彼らはこのような火災の時にその荷物を大きな櫃に入れて、それを砲架車に似たような4つの車輪の付いた荷車に載せて運ぶ習慣をもっているからである」

このように、荷物を火から守ってくれる耐火土蔵を持っていない人びとは、荷物を荷車で敏速に運び出していた。この荷車を「車長持」という。いざという時に俊敏に荷物を移動できるように、普段の生活で使っている長方形の木箱の下に車輪を付けたような簡単で便利なものだった。しかし、このような便利なものが避難経路で大きな混雑を引き起こしてしまうことは想像に難くない

車長持を押して避難する人々(浅井了意『むさしあぶみ 2巻』1661年)

「人間の命」よりも「治安」をとった江戸幕府

ワーヘナールによる避難の実況の描写はなおも続く。

「誰も最後になりたくなかったので、民衆はすべての辻に設置されている木戸に殺到していた。それらの木戸はあまりにも混雑したため、荷物を担いでいる200人以上の人びとが何度もそれらの木戸の前で足留めされた。時間が経つほど殺到する民衆の数がどんどん増えた」

ここでワーヘナールが言及している「木戸」は江戸時代に各町の境に設けられていた木製の柵と門のことである。道筋に家がびっしりとすきまなく建てられていたので、隣の町内に移動する際には必ず木戸を通らなければならなかった。各通りにこのような木戸が設けられた目的は、治安のためであり、盗賊の逃げ道を閉ざすためだった。

夜間および盗賊が現れた時に、番人が木戸を閉鎖した。木戸は治安を維持するには役立っても、火事の際には避難民の逃げ道を遮断する凶器になっていた。木戸という障害物のために多くの犠牲者が出ていたにもかかわらず、幕府はこの制度を改めようとしなかった。「人間の命」よりも「治安」の方を重んじたのである。