昭和16(1942)年12月8日、フィリピンに駐留する米軍航空基地に向け、まさに高雄基地を発進せんとする三空の零戦隊

【もう一つの日米開戦】フィリピンで圧勝した零戦隊長が語った悔恨

真珠湾の陰に隠れた主作戦の真実!

日米開戦といえば、ハワイ真珠湾攻撃が想起されるが、この日の日本海軍の主作戦はむしろ、フィリピンに駐留する米軍をたたくことだった。

当時、世界の常識を覆す航続距離を誇った戦闘機・零戦を護衛につけた日本海軍攻撃機隊は、わずか1日で米軍航空勢力を壊滅させ、破竹の勢いで米軍をフィリピンから駆逐する。

しかし、この戦いに零戦隊を率いて出撃した元海軍士官で、戦後、日航機墜落現場となった上野村村長として救援活動の陣頭指揮にあたった男は、苦い思いでこの戦いを振り返った。

 

対米戦の主目的は、真珠湾より南方の資源確保だった

78年前の昭和16(1941)年12月8日、日本はアメリカ、イギリスに宣戦を布告、太平洋戦争(日本で閣議決定された呼称は「大東亜戦争」)が始まった。続いてオランダ、中華民国も日本に宣戦布告、さらにドイツ、イタリアがアメリカに宣戦布告したことで、戦争はまさに世界大戦の様相を呈した。

この日の出来事を振り返るとき、「日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)の火ぶたが切られた」と語られることが多いし、真珠湾攻撃についての記事では、筆者もそのように書くことがある(『真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした「本音」』https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58835)。

だが、時系列をたどれば、じっさいに戦端が開かれたのは、真珠湾攻撃に先立つ同日午前2時15分(日本時間、以下同じ)、日本陸軍が当時イギリス領だったマレー半島東北端のコタバルへ奇襲上陸を敢行、英軍と戦火を交えたときである。機動部隊を発進した真珠湾攻撃隊の総指揮官機が「全軍突撃セヨ」を意味する「ト(モールス信号の・・-・・)連送」を発したのは、それから1時間あまり後の午前3時19分のことだった。そして午前10時20分、日本陸軍の重爆撃機が、フィリピン・ルソン島北部のバギオ、ツゲガラオを爆撃。午後1時半には、零戦に護衛された海軍の陸上攻撃機の大編隊が、ルソン島中西部の米軍航空基地の一大拠点、クラーク、イバ両飛行場を空襲、米陸軍航空兵力に壊滅的な打撃を与えた。

フィリピン要図。クラーク、イバの米軍航空基地が日本側の攻撃目標だった

「アメリカと戦争をやると聞かされたときは、練習艦隊の遠洋航海で桁違いの国力の一端を見てきただけに、あのアメリカと戦うのかと不安でした。おそらく搭乗員の3分の2は初日に戦死するだろうと思って出撃したんですが……」

と、黒澤丈夫(1913-2011)は言う。黒澤はこの日、台湾・高雄基地の第三航空隊分隊長として、零戦隊を率いて出撃した。黒澤は戦後、郷里の群馬県上野村村長となり、昭和60(1985)年8月12日、村内の御巣鷹の尾根に日航ジャンボ機が墜落、520人が死亡する未曽有の航空事故が起きたさいには、地元自治体の首長として救難活動の陣頭指揮にあたったことでも知られる。(「日航ジャンボ機墜落事故で救難にあたった上野村村長を支えた海軍魂 村長は、特攻を拒否した零戦隊長だった」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56934

黒澤丈夫氏。昭和16年12月8日、フィリピンの米軍基地空襲のさいには分隊長として零戦隊を率い、戦後は郷里・群馬県上野村村長となって10期40年務めた。その間、昭和60年8月12日には日航ジャンボ機が村内に墜落、地元首長として救難活動の陣頭指揮をとる(右写真撮影/神立尚紀)

真珠湾攻撃ばかりがクローズアップされがちな「12月8日」だが、開戦の主な目的は、蘭印(オランダ領インドシナ-現インドネシア)を中心とする南方の資源(特に石油)地域の占領、確保にあった。

その意味では、海軍航空隊で言えば、奇襲をやりっぱなしの機動部隊の作戦よりも、台湾からフィリピンへと駒を進め、マレー半島、蘭印の広大な地域を制空権下におさめるという、基地航空部隊の作戦こそが本命だったとも言える。日本が東南アジアに進出する上で、もっとも脅威となるのは、フィリピンに配備されている米軍の航空兵力である。そこで日本海軍は、まず台湾に展開する航空部隊をもってフィリピンの米航空基地を殲滅しなければならなかった。

だが、台湾南部の基地からフィリピンのクラークまでの距離は約450浬(カイリ・約830キロ)もあり、その間はほとんどが海ばかりで、日本軍の飛行場も給油施設もない。前年の昭和15(1940)年、中国大陸の漢口(かんこう)基地の第十二航空隊に初めて零戦が配備され、中華民国国民政府が首都を置く重慶上空の空戦で実戦デビューしたさいの進攻距離は430浬(約800キロ)だったが、このときは途中の宜昌(ぎしょう)に不時着や燃料補給のできる中継基地が置かれている。双発の陸上攻撃機なら、航続距離が長い上に航法専門の偵察員や電信員、搭乗整備員まで乗っているが、零戦のような単座戦闘機は全てを操縦員が一人でこなさなければならない。途中で降りる場所さえない海上を、戦闘機がこれほどの長距離を飛んで戦った例は世界のどこにもまだなく、いわば常識外れの作戦だった。

ここでは、黒澤が筆者のインタビューに語った話を軸に、真珠湾の陰に隠れた「もう一つの12月8日」を振り返る。