名野球プレイヤーであり「人格者」として有名な松井秀喜氏のその人柄の理由を、幼少期から読売ジャイアンツに入団するまでの道のりが綴られた講談社文庫『ひでさん〈松井秀喜ができたわけ〉』より抜粋掲載し紹介してきたこの連載もとうとう最終回。

弱冠18歳にして、長い間暮らしてきた故郷を離れ巨人に入団することを決めた時、松井氏は一体どのような思いだったのだろうか。これまで松井氏を影から見守り続けてきた両親に向かう「熱い思い」とは。

今までの連載はこちら

「息子は我々を超えてしまった」

星稜高校は1992年でちょうど創立60周年を迎える記念の年だった。秀喜は前年の夏の甲子園から帰ってきた時に、学校を創立した理事長の稲置繁男とある約束を交わしていた。

「いいか、松井君。在学中にホームランを60本打ってくれないか。59本でもいかん。いいか、61本でもだめなんだ。ちょうど60本なんだ。私と約束してくれないか」

稲置が23歳で珠算塾を始めたとき生徒はわずか2名だった。それが60年の歳月を経て今の星稜高校が出来上がった。60年の節目を秀喜のホームランで飾るべく願いをかけていた。

この夏の甲子園に出るまでに、秀喜は、高校野球公式戦で59本のホームランを打っていて、60本という約束にあと1本とリーチがかかっていた。しかしこの甲子園ではその1本が出ずじまい。そして、2年連続で選ばれた三国親善高校野球大会の韓国遠征でも出なかった。

Photo by iStock

10月8日、ついに高校生活最後の公式戦、山形でのべにばな国体が始まった。星稜は1回戦で愛知代表の東邦高校、2回戦徳島代表の池田高校、3回戦山形代表の日大山形高校を破り、ついに香川代表の尽誠学園との決勝戦まで持ち込んだ。

ここまで秀喜のホームランは出ず、最後の1試合となった。そしてヒット、3振、ヒットでついに8回の最終打席を残すだけ。

「勝負してくれ」

監督の山下がベンチから思わず叫んだ。祈るような声。

Photo by iStock

カーン。その直後2球目の内角ストレートがライトスタンドへと、弾き返された。

最後の試合の最終打席で60号の記念ホームランを放った。理事長との約束が果たされた。3塁ベースを回ったところで、秀喜はいったん立ち止まって、尽誠のベンチに向かい、頭を下げた。勝負してくれたことへのお礼の挨拶だった。