中島みゆきの「魂の歌声」に圧倒され、救われた人々の証言

重く尖っているけど、聞き惚れてしまう
週刊現代 プロフィール

彼女は、個人医院を開くために新天地を求めた父と一緒に5歳で道内の漁師町・岩内に移り住み、その5年後には帯広に転居。北海道を転々とする幼少期を過ごした。

当時、父の開いた「中島産婦人科医院」には、夫と同伴する幸せそうな妊婦だけではなく、様々な事情を抱えた女性たちが毎日のように訪れた。

Image by iStock

そんな彼女たちの姿を見て、多感な中島は男女関係の生々しさを感じ取り、同時に影響を受けた。ときに「怨歌」といわれるほど重々しい彼女の失恋ソングには、そんな少女時代の経験が根付いているのだろう。

ヤジの中、ステージへ

中島が'79年からパーソナリティを務めたラジオ番組『オールナイトニッポン』の元ディレクター・入江たのし氏は、こう証言する。

「みゆきさんの『オールナイトニッポン』は楽しく聴けるコーナーが大半を占めていましたが、リスナーの切実な思いを紹介する場面では空気が一変しました。

 

みゆきさんは放送前、スタッフが粗選びしたリスナーの真剣なメッセージを一生懸命読み込むんです。そのときばかりは、スタッフはスタジオに足を踏み入れられませんでした。

あるとき、10代の女性から『妊娠してしまったけれど、子供を産んで育てる自信がない』という投書がありました。みゆきさんは安直に『がんばれ』と励ましたり、コメンテーターのような上からのアドバイスは一切しなかった。

『私には何が正解なのかはわからないし、無責任なことは言えない。でも、私はあなたという存在を絶対に否定しない』と語りかけていました。苦しんでいる人に寄り添う。それが彼女の本質なのでしょう」

北海道時代に話を戻そう。'67年に地元の名門・帯広柏葉高校に進学した中島だったが、決して華やかな学生生活ではなかった。周囲とうまく溶け込めず、授業中には鬱々と詩を書く毎日。本人も当時を振り返り、「(精神的には)引きこもり状態だった」と明かしている。その孤独感こそが、彼女を作曲へと向かわせた。