プロ経営者・原田泳幸氏は、マクドナルドで結局「何をしたのか」

タピオカ大手の社長就任を機に振り返る
福田 健 プロフィール

栄光の原田改革

「売上げは客数×客単価だ」

著書『成功を決める「順序」の経営』に書かれた、このシンプルな数式こそ、原田のマクドナルド経営の根幹にある哲学だ。彼が決算発表会でたびたび示していた資料「戦略シーケンス」を読み解くと、この数式にのっとり、「客数を増やす戦略」と「客単価を増やす施策」を交互に実施していたことがわかる。

経営をシンプルな公式に還元し、効率化を測る米国式の哲学――こうした米国流スタイルを提げて、原田が外食業界の“巨人”のもとにやってきたのは2004年のことだった。

 

当時、マクドナルドは苦境にあった。1990年代初頭のバブル崩壊後には積極的な店舗進出を行い、「65円バーガー」(平日限定)をヒットさせ、「デフレの勝ち組」と言われた。だが、急速に店舗網が拡大したこと、商品の安売りを過剰に行ったことで、現場は疲弊していた。即席店長を量産したことでサービス水準が低下していたのだ。

〔PHOTO〕Gettyimages

そこに追い打ちをかけたのが2001年のBSE(牛海綿状脳症)発生である。マクドナルドがいくら「当社は豪州産牛肉を使用しており、安全性に問題はない」と説明しても、顧客離れに歯止めはかからなかった。経常利益は1999年に314億円と過去最高を記録したものの、2003年には18億円にまで落ち込んでいる。

業績不振の責任を取るかのように、日本マクドナルドの創業者で当時のCEO、藤田田(ふじた・でん)は、2003年3月にその座を退いた。その後も経営の混乱は続き、同年には本社の従業員130人あまりを希望退職させた。そこへ引き抜かれたのが、アップル日本法人の社長で、米アップルの副社長として活躍していた原田だった。

外食産業の外部からやって来た原田に求められたのは、従来のマクドナルドの徹底的な否定だったと言ってもいい。

創業者の藤田は、株式の約半分を米国のマクドナルドに握られていたにもかかわらず、米本社の介入を嫌い、経営のいたる所で日本流を貫いていた。米国からマニュアルや食材を調達する一方、人事制度については、少なくとも建前上は「日本一高給を払う企業」を目指すなど、温情主義を守った。原田はそこに、米国からの指導を受けつつ、“藤田流”と正反対の“米国式”の手法を持ち込むことに専念したのである。その手腕において、「原田さんは天才だった」(元側近)。