追悼・中曽根康弘氏──「節制と精進の名宰相」に捧ぐ

大食も深酒も、決してしなかった

卵焼きをあきらめる

昭和の子供が大好きだったのが「巨人・大鵬・卵焼き」。大正の子供には巨人も大鵬もないが、卵焼きはあった。「三つ子の魂、百まで」というが、大正7年に生まれて、大人になってからもずっと卵焼きが大好きだったのが中曽根康弘氏である。

弁当をつつくときも、中曽根氏は卵焼きを「取っておく派」だった。はじに寄せて、最後に食べるのを楽しみにしていた。ところが途中で腹八分目になると、箸を止めた。卵焼きはお預けとなる。

人間だれしも憂さを晴らすため、今夜はしこたま酒を飲むぞという日もあるだろう。中曽根氏にもそんな日は数限りなくあったはずである。しかし中曽根氏は絶対に度を越さない。盛り上がっている宴席の雰囲気を壊さないようにしながら、いつも自分を律していた。

もちろん政治家にとって大事な健康を気遣かってのことだが、この節制は中曽根氏の知的な精進につながっていた。大食、深酒をしないのも家に帰ってから勉強をするためなのである。盟友の渡辺恒雄氏(読売新聞主筆)が「あのような勉強家、読書家は他に知らない」という追悼の辞を送った通りである。

中曽根氏は「節制と精進の人」だった。

この節制と精進が「総理になったらこれをやろう」と書き留めた数十冊の大学ノートを産んだ。その過程で目標を定め、設計図を作り、工程表を練り、陣容を整える政治の「総設計師」としての力量も備えた。「戦後政治の総決算」を展開する土台を築いたのである。

首相の座を降りてからも、健康から読書まであらゆる面での節制と精進を続けた。天はこの努力に報い、中曽根氏に百一歳という長命を与えた。

最晩年に至るも耳が遠くなったことだけがハンデで、その発信力は衰えることがなかった。腹心だった藤波孝生氏の評を借りれば、まさに「生涯一書生」だった。

「歴史法廷の被告」を自任していた中曽根氏は十分な陳弁の機会と時間を得て、回顧録をはじめとして多くの政治的、歴史的な「遺産」を残した。日本の政治家としては稀有なことである。