それはあなたのせいなのか?(photo by iStock)

交通事故を起こしても、ドライバーが責任を問われないときはあるか?

「だれかのせい」について考える
もし私たちが交通事故を起こせば、その責任を取るのは当然だ。一方で、事故を起こした運転手に、責任は「ない」と言われることもある。両者にはどんな違いが存在するのか。そもそも、「責任」とは何なのだろうか? 『心にとって時間とは何か』を刊行したばかりの京都大学准教授の青山拓央氏が、その謎を明快に描き出す。

どんなことでも責任転嫁できるか

どんなことでも、ひとのせいにできる。「せいにする」という表現に、非常識なほど広い意味を与えれば。

ある人物が何らかの失敗や悪事をなしたとして、それを「X」と呼ぶことにしよう。そして、過去に他のだれかがあることをしなければ、Xは生じなかったとする。もし、これだけの条件から、Xをなした責任をそのだれかに押しつけられるなら、どんなことでも責任転嫁できそうだ。

 

たとえば、私の両親が付き合わなければ私は生まれなかったのであり、私のいかなる行為もなされることはなかった。それゆえ、先記の条件のもとでは、私のなした失敗や悪事はすべて両親に責任転嫁できる。

だからといって私の失敗や悪事のすべてを、両親に責任転嫁するのは、明らかに非常識である。私たちは普段、責任の概念をそんなふうに乱暴には使用していない。

交通事故は薬の副作用のため?

それでは改めて責任とは何かを問うてみると、これはたいへんな難問だ。いまは問題を絞り込み、「過去にだれかがあることをしなければ、Xは生じなかった」とき、Xの責任をそのだれかに負わせることが適切な場合と、そうでない場合との違いを見ることにしよう。

歩行者がバスにひかれて怪我をした、という状況を考えよう。バスのドライバーが信号無視をして交差点に入り、その結果、歩行者がひかれてしまったなら、ドライバーには事故の責任がありそうだ。ドライバーが信号無視をしていなければ、事故は起きなかっただろうから。とはいえ、この説明のみでは、ドライバーの両親に責任転嫁できない理由が分からない。

では、この事故の状況に関する、いくつかのバリエーションを挙げてみよう。

(1)ドライバーが信号無視をしたのは睡眠不足のせいであり、睡眠不足となったのは、ある芸能人が結婚したことにショックを受けたためである。
(2)ドライバーが信号無視をしたのは睡眠不足のせいであり、睡眠不足となったのは、昨夜遅くまで隣家が騒がしかったためである。
(3)ドライバーが信号無視をしたのは突然の睡魔のせいであり、その睡魔に襲われたのは、医者が間違って注射した薬の副作用のためである。
(4)ドライバーが信号無視をしたのは、減速しすぎると爆発する爆弾が──映画の『スピード』のように──バスに仕掛けられているのを知ったためである。

これら4つの状況に関して、ドライバーが負うべき責任の重さは異なっていると思われるだろうか。もし、そう思われるなら、いずれかの状況において、ドライバーの責任の一部をだれかに受け渡すことは適切だろうか。

万人が同意する答えを、こうした問いに与えることは難しい。しかし、おそらく多くの方が、4つの状況のいくつか(あるいは全部)についてドライバーの責任に違いがあると感じるだろう。いまから考えてみたいのは、各状況におけるドライバーの責任にもし違いがあるとすれば、それは何によってか、である。

責任は何によって変わるのか(photo by iStock)

責任を軽減されるとき

(1)と(2)の状況を比べたとき──交通事故の責任を転嫁することはできないにせよ──(2)のほうにより多くの人が同情するとすれば、その理由は何だろうか。

それは、深夜の喧騒と睡眠不足との繋がりを多くの人が認めているからだ。深夜の喧騒は一般的に近所迷惑なものであり、そのため共同住宅などには、それを禁止する規則がしばしばある。他方で、(2)の状況においても責任の転嫁が難しいのは、深夜の喧騒によってドライバーが信号無視を強制された(もしくは余儀なくされた)とまでは言えないためだろう。

(1)や(2)の状況に比べて、(4)の状況ではドライバーの責任がずっと軽減されるように見えるのは、信号無視が強制されたことが、だれの目にも明らかであるからだ。バスに爆弾を仕掛けたことはそれ自体が重い罪であるが、たんに、ドライバーと爆弾犯のどちらの罪が重いかが問題なのではなく、信号無視が爆弾犯によって強制されたものであることが重要である。