「追放」されていた講談社社長が、会社に復帰するまでの壮絶な道のり

大衆は神である(78)
魚住 昭 プロフィール

そのとき『宮本武蔵』の出版準備は、尾張の号令で社をあげて進行中だった。当時、校閲部員だった佐々木敬二郎によると、すでに第3巻まで校正が終わり、「校正の私たちも連日連夜の仕事を続け、全社一体となって燃えに燃え、会う人ごとに目の色が変わっている程活気に溢れ潑剌とし盛り上がった社内であった」(『緑なす音羽の杜に――OBたちの記録』)。

こうしたなか、伊東から帰った尾張は臨時社員総会を招集し、「忍ぶに忍べないが、感ずるところあって『宮本武蔵』から手を引く。これは決して負けたとか勝ったという問題じゃない。すでに製本した分は“ヤレ本”(落丁や乱丁、汚れなどで売り物にならない本)にしてもいい」と涙ながらに発表した。それを聞いて「一同拳をあげ慨嘆した」(佐々木の回想)という。

 

3年のうちに社内は大きく変わった

昭和24年(1949)5月7日、省一の公職追放仮指定は正式に解除された。

そのころには、米ソ冷戦でGHQの対日政策が変わり、出版界の左翼旋風もおさまっていたから、講談社のほうから社長として迎えに来るだろうという考えが省一にはあったようだ。無理をすることを嫌い、自然にことが運ぶのを待つというのが、省一の生涯変わらぬ流儀である。

しかし、省一が社長を辞任した21年1月から約3年間に講談社は大きく変わっていた。省一や左衛ら野間家の人々はその変化に気づいていなかったらしい。

戦前の講談社では給料のことを口にするのはタブー中のタブーだったが、敗戦直後に部課長クラスを中心に結成された社員会が昭和21年4月に講談社従業員組合(労組)となったころには社員の意識もかなり変わっていた註3

『野間省一伝』によると、昭和22年6月の社員大会では20代、30代、40代の社員それぞれが「新しい社員道――三大社是を中心にして」というタイトルで演説会を開いた。

20代の社員は「渾然一体、縦横考慮、誠実勤勉の三大社是は野間イズムの政策手段として効果をあげ、社長一家は巨万の富をなしたが、誠実たりし社員はどれほどの出世をし、いかほどの経済的余裕を得たか」と演説するようになった。

またシベリアに抑留されて共産主義の洗脳を受けた者も23年に入るとぼつぼつ帰還してきた。世の中全体が左翼的になっていたころだから、かつて清治を神の如く崇拝していた少年部出身社員の中にも、「われわれは搾取されていたのだ」と憚ることなく言う者がいた。

そんな講談社の状況では、省一を社長として迎えようとするような空気はあまりなかった。