「追放」されていた講談社社長が、会社に復帰するまでの壮絶な道のり

大衆は神である(78)
魚住 昭 プロフィール

尾張によると、吉川側はそれを知って正式に弁護士を立てて抗議してきた。講談社側も弁護士を通じ「出版する権利はこっちにある」と主張した。すると、吉川側も「何を言うか。私は野間清治と契約した。清治は死んでしまって契約期間もすぎているから、講談社に権利はない」と反論し、「もしこの件で自分が負けたら、筆を折って、文壇から去る」と悲痛な覚悟を見せた。

それに対し、尾張は「よし、それなら検印は押さんでもいい。こっちは印税を供託して無検印で出す」と言って、退かなかった。

 

清治が生きていたらそんなことは……

翌昭和24年1月、六興出版は読売新聞に『宮本武蔵』の刊行企画を発表した。それは、単行本とせず、『吉川叢書』の一部として収録するというものだった。吉川と講談社が戦前に交わした契約書には、全集または叢書の一部としては他社で出してもいいと明記されていたから、六興出版側に違法性はないことが明白になった。

そこへ、元朝日新聞常務の鈴木文史朗(すずき・ぶんしろう)が「僕が行って話してやろう」と仲裁を買って出た。鈴木は青梅の吉川宅を訪ねて諄々(じゅんじゅん)と説いたが、吉川は「他のことならあんたとの付き合い上、ウンと言うかも知れないが、この事に関しては承服できないから手を引いてくれ」と答えた。

次も尾張の回想である。

〈それでいよいよ頼みの綱も切れたと思って、よろしい。俺はどうなっても、いよいよ検印しないというならば、こっちは十万部損してもいい、あっちが筆を折るなら、こっちも社に対して自分の責任を全うするために十万部をトラックに積んで、青梅の吉川氏宅のそばに橋がある、あの橋の上から「吉川英治、これを見ろ!」といって川の中にたたきこんでやると言った。

しかし、僕が発売を急がしたのに発売できない(講談社の)業務部ではブウブウ言っている。印刷工場では博徒あがりだというのがいて、吉川英治を短刀で突き殺してやるとわめいている。

僕はそうしている間に、伊東(の別荘)で静養中の大奥さん(左衛)に、僕もホトホト考えがあまってご意見を聞きに行ったんだ。大奥さんは体の調子が悪くて寝ていたんですが、「それは尾張さん、おやめなさい。吉川さんに対して今までのいろんな関係があるし、野間清治が生きていたらそんなことはしでかしませんよ。何もそう強引に吉川英治に楯突くことはない。言うことがあっても胸に納めてすんなりやったほうがいい。すでに製本した分を損しても、その方が講談社の将来のためにもいいと思う」と言われて、僕はハッとして悟るところがあった〉