「追放」されていた講談社社長が、会社に復帰するまでの壮絶な道のり

大衆は神である(78)
魚住 昭 プロフィール

木村の証言をつづける。

〈そうしたらニュース(ママ)・ウィークの東京駐在員の某(この恩人の名を忘れた)が、塚田は共産党員だ。今度新任してくる部長のシーボルト氏にその旨を訴えて、追っぱらってもらえ、訴状は自分が取りついでやるといってくれた。それで塚田の共産党員としての傍証かために(自由出版協会の理事だった講談社の)田村(年雄)君も私もずいぶん骨を折った。塚田が大和の郡山中学の出身で、そのころから左翼に連絡があったときき、私はわざわざ調査に西下した。

その時、手をかして郡山中学関係をあたってくれたのが、辻平一君だ。当時は毎日新聞の記者だったが、いま講談社五十年史の仕事をする因縁の糸は、このころから、我々の知らぬうちに織られていたのだといえばいわれる〉

「意地わる」をしていた「塚田某」は、木村らの訴えですぐクビになった。これで省一復帰の最大の障壁は取り除かれた。

 

野間さんはOKだ

そのうちにGHQの朝鮮課にいたジャック・ネピアが公職追放担当課長になり、未解決のパージ案件をすべて処理するという情報が木村の耳に入ってきた。

これを逃したら、当分、省一の浮かび上がるあてがない。何か手づるはないかと思っていると、幸運にもジャパン・タイムズの営業局長で二世の村田五郎がネピアと昵懇(じっこん)だとわかった。

村田なら、彼が中学生のころからよく知っている。木村は田村と2人で訪ねていって訳を話して頼むと、村田はよくわかってくれた。

しばらくすると、村田から、

「野間さんはOKだ。まだ公式に発表されないが、適当な時期に、そう知らせてあげてよろしい」

と、電話がかかってきた。木村は2〜3日、それを胸ひとつに収めていた。しかし、田村があんまり心配そうな顔をしているのが気の毒になり、自由出版協会の会合がひけてから、神保町のカフェに寄り、

「じつは、君に知らせる重大なニュースがあるんだ」

といって、村田からの報告があったことを話した。そうしたら、田村は、

「ありがたい、これで講談社は安泰だ!」

といったかと思うと、思わずホロリと大きな涙をこぼした。

しかし、仮指定解除の見通しがついても、省一の社長復帰はなかなか実現しなかった。詳しい事情は後述するが、組合や、専務の尾張真之介ら経営陣の反対があり、それを乗り越えるのにかなりの時間と労力を費やさなければならなかったのである。