「追放」されていた講談社社長が、会社に復帰するまでの壮絶な道のり

大衆は神である(78)
魚住 昭 プロフィール

業績低迷は販売システムの変更とも関係している。戦後3年間、講談社の雑誌書籍は戦時中と同じく、返品不可の買切制だったので、部数は少なくても一定の利益は計算できた。

しかし、昭和23年9月号限りで買切制が終わり、10月号からすべてもとの委託制(書店は売れなかったものを返品できる)に切り換えられた。結果、さっきふれたように『キング』『婦人倶楽部』ともに発行部数の約半分が返品となり、収支のバランスが悪化した。

 

復帰の最大の障壁

この年には、言論界の公職追放(言論パージ)が最終段階を迎えている。追放する者と、せぬ者の選り分けがだいたい終わり、最後まで未決のまま残ったのが省一らである。

省一のケースは微妙だった。なぜならパージの対象が、昭和12年7月の盧溝橋事件から昭和16年12月の日米戦争開始までの間に役員だった者とされていたからである。

GHQは、日米開戦後のマスコミの戦争協力は除外し、開戦前に国民を扇動して戦争に駆りたてたことに限って責任を問うたのである。省一が講談社の常務取締役に就任したのは昭和16年7月だから、パージの対象期間に5ヵ月ほど引っかかる。

木村毅はこう語る註2

〈しかし(省一さんは)満鉄からきて、出版にはズブの素人だから、実際の責任があるとは思えない。そこでこれは、追放の枠から外ずしてほしいと(自由出版協会の)我々は訴え、日本側の委員は一、二をのぞくと大たい了承してくれたが、アメリカはそれにたいしてウンともスンともいわない。塚田某という二世がアメリカの係員の秘書で、絶大の権力をもち、これが俗にいう意地わるをしているのだと分った〉

証言の途中だが、お断りしておかなければならない。木村のいう「塚田某」はおそらくトーマス・T・ツカハラ(日本名は塚原太郎)の勘違いだろう。

増田弘著『公職追放 三大政治パージの研究』(東京大学出版会、1996年)によると、ツカハラは帰米二世(米国で生まれ、日本で教育を受けた後、再び米国に帰った者)で、1930年代の世界大恐慌時、米国西海岸で日系左翼活動に参加した経歴をもっている。

彼は太平洋戦線では陸軍情報部の対敵宣伝班で活動し、日本に上陸後、民間情報教育局(CIE)に所属したが、民政局(GS)次長のチャールズ・L・ケーディスに乞われて公職審査官としてGSに移った。彼の強みは語学力に優れていたことと、情報を収集しうる日本人グループを持っていたことだという。