実録「好き」をこじらせた男の「ややこしさ」の正体

the pillows30周年ライブで思った
高木 敦史 プロフィール

インターネットのさほど普及していなかった1990年代後半ならいざ知らず、この2019年には「知る人ぞ知る」ものの殆どは「割と知ってる人がいる」ものだと気づかされます。ツイッターでも何でもちょっと検索すればすぐに、自分よりも長くファンでいる人、熱心に追いかけている人を見つけられます。

歴史に詳しかったり、的確に分析していたり、内部事情を知っていたり。そんなとき、自分の中だけにあったはずのものが、実はどこにでもあって知っている人の間では常識に等しいものだと思い知ったとき「自分はこういう点で自分である」という部分が「誰でもない何か」に置き換わっていくような気がするのです。

特に「自分はこれのいいところはそこじゃないと思うんだけど」という部分がピックアップされたりすると、自分の認識が異端なんだという錯覚し、大切な「とっておき」だったものからつまはじきされてしまうような気さえします。

好きなものがみんなに広まり、ファンがたくさん増えるのはいいことです。私だってもし自分の小説が何かのきっかけで爆発的に売れたりしたら、諸手を挙げて喜びます。でも同時に、好きなものを誰かと共有しようという行為に対していつもどこかで恐怖を覚えていました。

 

心の古傷に煽られて

私は「私が彼らを好きなのは私個人の問題であって、他の誰とも共有する必要はない」という閉じこもった感覚の中にいたのです。

ネット等に「この漫画が面白かった」とか「この映画良かった」と書くときも、あまり具体的でないふわっとした感想程度に留めて「批評」にならないように気をつけています。批評は誰かと共有するためのものですから、自分は誰とも共有しなくて良いと考えていることの無意識の現れなのでしょう。

以前から感じていた抵抗感の正体が、これまでで最大の数のお客さんたちを目の当たりにして初めて顕在化したのでした。結局「好き=弱点」の呪縛からまだ逃れられていかったのです。

それは実に厄介なことで、ライブでみんなが一曲目からわーわー盛り上がって拳とか振り上げているときも、彼らの好きと自分の好きは必ずしも一致しないし、もしかして自分はこの場で浮いているのでは……? とか余計なことを考えてしまってうまく拳を振り上げられませんでした。

なので序盤は頭の中で「自分は昔の骨折の後遺症で右肩が上がらないんだ」という設定を作って難を逃れておりました。