12月 9日 日本初のグライダーが飛ぶ(1909年)

科学 今日はこんな日

地球のみなさん、こんにちは。毎度おなじみ、ブルーバックスのシンボルキャラクターです。今日も "サイエンス365days" のコーナーをお届けします。

"サイエンス365days" は、あの科学者が生まれた、あの現象が発見された、など科学に関する歴史的な出来事を紹介するコーナーです。

この日、海軍大尉の相原四郎(あいばら/あいはら・しろう、1879-1911)がフランス大使館付武官のル・プリウール(Yves Paul Gaston Le Prieur[仏語]、1885–1963)とともに、東京・上野の不忍池で、自動車で牽引された竹骨製の複葉式グライダーで試験飛行に挑戦。みごと、日本での初飛行を成し遂げました。

相原は、愛媛県松山市の農家に長男として生まれ、父親の死により、松山中学から当時海軍兵学校の予備校的な学校だった攻玉社(現在の攻玉社中学校・高等学校)へと転じ、海軍兵学校に進みました。日露戦争中は水雷艇に乗り組み、戦後は無線電信の研究をはじめ、海軍大学校へ進むことを希望していましたが、航空術研究を命ぜられ、空の世界へ入りました。

 

当時の日本では、軍の主導で航空技術の研究が本格化しており、それまでの軍用気球から内燃機関を積んだ、いわゆる飛行機の開発が目指されていました。海軍・陸軍双方から人材が選出され、さらに東京帝大の物理学教授であった田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ、1856-1952)などの学者も参加して研究会(臨時軍用気球研究会)が発足しました。

そのころ、相原は近所に住んでいたル・プリウールと知り合いました。本国での航空機開発に触発されたプリウールは任地である日本でも航空機研究に没頭し、グライダーを製作したものの飛ぶことができませんでした。そのことを聞いた相原は、プリウールと田中舘とを引き合わせたのです。

【写真】田中舘愛橘
  田中舘愛橘。本来は、地磁気や地震など地球科学(地球物理学)が専門だったが、欧州の航空熱に触れて、航空科学の必要性を痛感、帰国後積極的に活動を始めた photo by Kodansha Photo Archives

3人は、田中舘が導入した風洞実験で修正を重ねながら、フランスの資料に基づいたグライダー製作に取り組みました。12月初頭には、一高のグランドで初実験を行っています。この時の実験では浮揚には成功したものの、飛行場所の広さや牽引力の小ささから、満足のいく結果が出せませんでした。そこで、改めてこの日の不忍池での挑戦となったわけです。

この時の実験では、同じ機体を改良したうえで自動車によって牽引し、プリウール、相原がそれぞれ搭乗して滑空に成功しました。後から搭乗した相原の飛行では、牽引索が切れて池に墜落したそうですが、怪我はなかったとのことです。

3人はその後も実験飛行に挑んでいたそうですが、翌1910年にプリウールが帰国となって研究は終わりを迎えました。

その後、田中舘は、1918年に東京帝大附属の航空研究所をつくり、後に航空学科として独立する航空講座を工学部造船学科内に設けました。灯台航空研究所は、後に東京大学先端科学技術研究センターや宇宙航空研究開発機構(JAXA)へとつながっていきます。

相原は、航空術に関する調査・研究と航空機の購入のためにヨーロッパに派遣されました。派遣先の欧州で乗船していた飛行船が墜落し、その衝撃から腹膜炎に至り、それがもとで亡くなっています。

海軍は、彼の死亡原因を航空事故によるものとせず、またその扱いも階級特進などがなされない寂しいものでした。航空機の安全性を主張していた軍のために控えめにされたという意見もあるようですが、実際はどうだったのでしょうか。