12月 7日 昭和東南海地震が起こる(1944年)

科学 今日はこんな日

地球のみなさん、こんにちは。毎度おなじみ、ブルーバックスのシンボルキャラクターです。今日も "サイエンス365days" のコーナーをお届けします。

"サイエンス365days" は、あの科学者が生まれた、あの現象が発見された、など科学に関する歴史的な出来事を紹介するコーナーです。

東南海地震は、歴史上繰り返し大地震が発生してきた駿河トラフと南海トラフ沿いを震源域とする地震で、当初は、「遠州灘地震」「遠州沖地震」と呼ばれました。後に東南海地震と改められたのは、軍需施設の受けた壊滅的な打撃を隠すためという説もあります。

 

紀伊半島沖から遠州灘を震源域とした南海トラフの東側の一部が活動し、海洋プレートの沈み込みに伴い発生した、マグニチュード7.9の地震でした。震度は、三重県から静岡県の御前崎までの沿岸域の一部の範囲で震度6弱相当となり、長野県、福井県、滋賀県、奈良県などで震度5を記録しています。

規模はM7.9と推定されましたが、約100年から200年周期で大規模地震が発生する南海トラフ沖を震源とする地震としては、比較的規模が小さいものでした。

【図】想定震源域と歴史
  想定震源域を示した地図と東海、東南海、南海トラフ地震の歴史 参考:内閣府「1944 東南海地震・1945 三河地震報告書」

震災としての被害は、静岡県、愛知県、三重県が中心でした。軟弱地盤の沖積平野における住宅被害や埋め立て地における工場被害などの建物被害は、静岡県や愛知県に多く見られました。地震による死亡者は1223人が報告され、授業・勤務時間帯に重なったことから、学校や軍需工場等を中心に発生しました。

また、長野県諏訪地方でも、地盤の柔らかさから揺れが大きく、地震発生当初は、当該地では諏訪地震と呼ばれていたそうです。

被害地域の沿岸部では津波が起きました。三重県の尾鷲ほか熊野灘沿岸の被害が大きく、8~10mの大津波で、死者998人、負傷者3059人、家屋全壊25万6130戸、半壊4万6950戸の被害が出ました。

第二次世界大戦中に起きた巨大災害だったため、軍部が情報統制を行い、被害の詳細は報道されなかったため「隠された地震」と後に評せられました。しかし、アメリカをはじめ世界各地を網羅する地震観測網はこの地震の観測波をとらえており、ハワイやアメリカの西海岸の検潮儀には津波が記録されていました。

事実、 「ニューヨーク・タイムズ」や「ワシントン・ポスト」などのメディアは、日本の中部で大地震があったことや、軍需工場が壊滅的打撃を受けたことなどを伝えていたそうです。

この東南海地震から37日後の1945(昭和20)年1月13日午前3時には、内陸直下型の三河地震が発生。終戦前の混乱した時期に、大きな被害を出した地震が続きました。