1月 10日 小石川養生所が開設される(1723年)

科学 今日はこんな日

地球のみなさん、こんにちは。毎度おなじみ、ブルーバックスのシンボルキャラクターです。今日も "サイエンス365days" のコーナーをお届けします。

"サイエンス365days" は、あの科学者が生まれた、あの現象が発見された、など科学に関する歴史的な出来事を紹介するコーナーです。

旧暦の享保七年の十二月四日、すなわち1723年の今日、小石川薬園(現在の小石川植物園)内に貧窮病人の施療所「小石川養生所」が開設されました。江戸の町医、小川笙船(おがわ・しょうせん、1672-1760)が目安箱に投じた上書(意見書)に、八代将軍・徳川吉宗が賛同したことで実現しました。

*参考:講談社『医科学大辞典』14巻

目安箱が設置されたのは、享保六年の八月で、笙船が目安箱に投書したのはそれからすぐのことと思われます。吉宗は、町奉行の大岡忠相(おおおか・ただすけ、1677-1752)に設立を検討するよう命じ、1年あまりで開設されました。

 

管轄は町奉行で、笙船が養生所の代表である肝煎(きもいり)を務め、与力2名、同心数名が養生所掛として勤め、複数の医師が診療に当たったといいます。解剖学者で医学史家の小川鼎三(おがわ・ていぞう、1901-1984)によると、医師は、本道と呼ばれた漢方医(内科系)の医師が2名、外科2名のほか眼医も詰めていたということです。

利用方法は、病人が町奉行に願い出て、許可されたら名主が判鑑(いまの印鑑証明のようなもの。本人確認に使われたと思われる)を携えて、病人とともに四つ(午前10時ころ)から七つ半(午後4時ころ)までの間に養生所に赴きます。病人と判鑑を役人が調べ、問題なければ治療を受けられました。治療のかいなく死亡した場合は、家族に遺体を引き渡し、無縁のものは回向院(東京都墨田区両国)に葬られました。

治療期間中は飲食・衣服・寝具が支給されましたが、開設当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、敬遠する人も多かったそうです。しかし、そうした風評もいつしか消えるとともに利用者も増えて、40人ほどだった利用者が最盛期には150人を超えたといいます。

養生所開設を願い出て、自ら肝煎を務めた笙船は、1726年(享保11年)に肝煎の役目を子に譲り、以後は養生所の肝煎職は笙船の子孫が世襲したということです。

笙船は、相模・金沢(現・横浜市金沢区)へ隠居、病を得て没し、小石川の光岳寺に葬られ、後に雑司ヶ谷霊園に改葬されました。隠居先だった横浜市金沢区にある太寧寺にも分骨されています。山本周五郎の『赤ひげ診療譚』のモデルとなり、映画化されたことなどもあり、広く知られるようになりました。

【写真】小川笙船の墓
  雑司ヶ谷霊園にある小川笙船の墓。左に笙船の碑銘が読み取れる photos by Bluebacks

診療所は、徐々に利用者が減ったものの、幕末まで続きました。明治政府になってからは「貧病院」となりましたが、間もなく廃止されたとのことです。 現在、東大付属小石川植物園内には、当時の養生所の井戸が残されています。

開設されていたのは140年あまり。その間の治療実績ですが、累計で3万2000人を超える利用者のうち、約1万6500人が全快し、病死したのは約3500人。難治につき帰した者4200人ほどで、ほかに自ら願い出て帰った者などもいたそうです。