―作中の語り手の〈私〉は、元は幼稚園だった場所になぜかひとりで暮らしながら、ガラスケースが並べられた講堂の「番人」の役割を担っている。彼女の立ち位置も独特です。説明することを注意深く避けているというか。
あの講堂のなかでは、誰も生の言葉をぶつけあっていないんです。なぜなら、ひとつひとつの箱の中にそれぞれ種類の違う哀しみがあるから。ひとくくりにして語る言葉を持ち得ないということを〈私〉は心得ている。だからせいぜいいろんな匂いの蝋燭に火を点けるくらいしかできない。

この小説を書く際に気をつけなければいけないと思ったのは、語り手の目に映ったとおりに書くということ。逆にいえば、見えないことは書かない。つまり、子供を失くした人の内面に入っていくことは不可能なんだっていう、言葉の弱さを認めたうえでこれを書く立場を守ることでした。
思いがけないプレゼントに
―そのぶん、モノの細部が雄弁に物語りますよね。例えば、子供の遺髪でつくった極小サイズの竪琴のリアリティには息を呑みました。
言葉で心を描くことはできない以上、モノを描くしかありませんから。それに、こまごまと拵えられたモノや人の手業って、描写すること自体が楽しいんですよ。人は手を動かしているときがいちばん人間的ですから。
そういえば、この本のサイン会に来てくれた中学生の男の子が「お遊戯会のプログラム」と書かれたファイルをプレゼントしてくれたんです。開けてみると、作中に登場するような、文字が小さすぎて読めない手紙が入っていて。思わず抱きしめたくなりました(笑)。
―ある意味、偏執ともいえるモノ愛の深さを感じるのですが……ご自身は特に収集癖等はお持ちでないですか?
そうですねえ……仕事机の上にビーバーの頭の骨と、子供が小さいときに拾ってきた海ガラスが置いてあって、小説を書くときに撫でたりはしていますけど……収集癖というほどのものは。
私、コレクターと呼ばれる人びとは狭義の意味で幸せになれないような気がするんですよ。だって、全世界を自分の手に収めたいという歪んだ欲望の持ち主なわけだから。とはいえ不可能だとわかっていながらやり続けずにはいられない、その性には大いに魅力を感じます。