飯塚幸三容疑者を「パブリック・エネミー」に認定した日本社会の病巣

これは現代の「いけにえ」なのか
真鍋 厚 プロフィール

「法の機能不全」という不安

「パブリック・エネミー(公共敵)」に対する苛烈なまでの殺意の表明は、われわれの社会において、「社会的な悲劇」が「刑事司法制度」の手に余る状況が生まれつつあることを知らしめている。

もはや「刑事司法制度」ですら「生温」く「役不足」であると思ってしまう人々の増加は、「国民の総意としての暴力」を作り出そうとする過激なバッシングこそが、われわれの社会の統合を辛うじて可能にする数少ない活路となってしまったことを示しているのだ。

 

ジラールは、「供犠」を「法体系をもたない社会」における「暴力との戦いにおける予防手段」と捉えた。つまり、共同体の内部で沸騰する個々人間の争いや暴力、諍いを未然に防ぐために「いけにえ」が存在すると。そして、「供儀」が失われた近代社会では、「法体系」がその役目を代行する「内的暴力の治療手段」であるとも。

この仮説を今のわたしたちの社会に適用すると、まったく別の景色が浮かび上がってくる。

わたしたちの多くは、日々のニュースやネット情報にさらされる中で、(自分たちが)「法が機能していない社会」に置かれていると感じているのではないか。そして、それが実質的に「法体系をもたない社会」のような様相をみせているのではないか。

Photo by iStock

池袋の事件では、「元エリート官僚だからすぐに逮捕されなかった」「容疑者は政権とつながっている」といった疑心暗鬼が直接的な要因にはなったが、おそらくはこの事件の進行過程そのものに、現在の社会の不条理=「法の機能不全」──嘘や不正が公然とまかり通る世の中──が刻印されていることを、少なからぬ人が感じ取ったのだ。