飯塚幸三容疑者を「パブリック・エネミー」に認定した日本社会の病巣

これは現代の「いけにえ」なのか
真鍋 厚 プロフィール

パブリック・エネミーと「いけにえ」

フランスの文芸批評家、ルネ・ジラールは、暴力と宗教に関する論考で「供犠(いけにえの儀式)の効果には共通点がある」と述べている。

〈それは内的暴力である。つまりそれは、軋轢であり、敵対関係であり、嫉妬であり、近隣者間の争いであって、供犠はそれらをただちに除去しようとするのである。供犠が修復するものは共同体の調和であり、供犠が強化するものは社会的統一性である〉(*1)

現代は、家族や地域社会などのソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の崩壊により、「万人の万人に対する闘争」(トマス・ホッブズ)のような状態に陥りやすくなっている。

 

わたしたちは「誰もが平等になると、それまで以上に小さな差異が気になる」という「平等のパラドックス」に囚われがちになり、「社会的つながりもなく、たんに隣り合って暮らすだけの人々からなる宇宙」でギスギスした生活を送り始めている(*2)。

そのような中で、「言葉による暴力」の対象となり感情の浄化をもたらす「国民共通の敵」=「パブリック・エネミー(公共敵)」の存在は、前述の「万人の万人に対する闘争」状態を一時的に終わらせ、良くも悪くも「〈わたしたち〉という感覚(ナショナルなつながり)」に気付かせてくれる。

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かつて、「儀礼としての供犠」は社会の慣習にシステムとして組み込まれていた。その仕組みが失われた現在では、「儀礼」という定型こそ少しずつ失われつつあるものの、各種メディアがショーという「祭事性」を装った形で「供儀」を再生しているように見える。

そこでソーシャルメディアが果たす役割は、「供儀」への直接参加の機会の提供であり、傍観する人々をも巻き込んで「供犠の対象」をめぐる異常な熱狂、お祭り騒ぎが出現することとなる。

集団的な興奮状態と、それによる融合状態を生じさせる「祭り」が衰退した現代にあって、バッシングという憎悪のエネルギーによって作動する「供儀」はいわば「負の祭り」である。