女性差別を内面化するテレビというメディア

それはきっと、私たちが生きている世界に張り巡らされた、知覚の性別バイアスのせいだろう。カメラは文字どおり「目」だ。私たちが普段何気なく見ているテレビは、昔も今も、主に男性たちが“男らしい”感性で作っているメディアである。テレビを見ていると、このメディアは究極のレイトマジョリティないしラガードだと思うことがしばしばあるが、2019年の調査でもテレビ局は女性社員2割、民法3局が女性役員ゼロという恐るべき昭和ぶりだった※3

無意識にテレビを見ているだけで、男性の知覚でもって情報はインプットされる。男らしいイデオロギーが見る人に植え付けられていく。老若男女問わず。これが女性が女性差別を内面化してしまう仕組みである。

〔PHOTO〕iStock
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カメラという目は、若く美しく、物言わぬ女性を好む。ゆえに、その真逆の存在、堂々と意見する若くない女性が映し出されたとき、“テレビを見るプロ”である視聴者の多くは、違和感や不快感を抱く。堂々と自分の意見を話す若くない女性の姿は、電波に乗った瞬間、いかんともしがたくネガティブな印象に自動変換されてしまうのだ。発言の正当性とはまったく関係なく。そこへ、『TVタックル』で名物バトルになっていたように、舛添要一らが個人攻撃のように彼女を罵倒すれば、世論は完璧に仕上がるだろう。バッシングのはじまりだ。

みんなで「おじさんの沽券」を守る日本社会

もちろんそれだけじゃない。女性が男性、とくに中高年男性の言うことに意見や反論をすることは、タブーだからだ。女性はにこにこ笑顔で場の雰囲気を和らげることを求められる。言われたことはなんでもこなす従順さを求められる。もし意見があるなら、思いっきり下手に出て、可愛らしい声色にちょっと困った様子で、おうかがいを立てなくてはけない。間違っても人前で男性を論破してはいけない。それは男性がもっとも大事にしているもの、メンツを潰すような真似だからだ。

衆人が目にするテレビというメディアで、男と対等に議論を交わす田嶋先生は危険人物だった。議論の盛り上がりには欠かせない番組の要であり、視聴率に大きく寄与している反面、彼女をもてはやしては、おじさんの沽券に関わる。