一過性かと思ったけれど

しかし、彼女の望みを裏切って、自分を看取ってくれるはずの父が、あっという間に逝ってしまった。悲しみと不安と孤独感で、押しつぶされそうだったのだろう。
ぼんやりしているのはそのせいだ。伴侶の死で、一過性のうつ状態になった人の話も聞いたことがある。母もそうなってしまったのだ、と考えることにした。つまり、いつかは元の母に戻る、と。

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役所への届け出は、私がすることにした。

家事を済ませ、義母の世話など済ませてから、実家に行く。
死亡診断書や健康保険証などをまとめて、役所に向かった。手続きが進むごとに、父の死がリアルなものへと変化していく。

死亡に関する手続きはスムーズに終わり、実家に戻って母に報告した。母は力なく返事をしていたが、昼ごはんを食べ、他愛ない会話をしているうちに硬い表情が緩んでいった。

寝転がってばかりいたのか、畳には座布団が並べられていた。ダイニングキッチンは暗いまま、静まり返っていた。洗い場の蛍光灯だけがついており、シンクには食器が溜まっている。

母はもう、ダイニングテーブルを使っていなかった。

いつも台所はきれいに使っていた母が洗い物をためておくことに衝撃を受ける Photo by iSotck

畳一面にビールの空き缶

次に母を訪ったのは、ほぼ1週間後。実家近くの花火大会が開催される日だった。娘を連れて孫と花火でも見に行けば、少しは気分も紛れるだろう。
玄関を開けて部屋に入ると、その変わり様に立ちすくんだ。畳一面、ビールの空き缶だらけだったのだ。350mlの缶で何箱分かわからない。晩酌でビールをグラス1杯飲むか飲まないかという人だったのに、この数はなんだ。

母の表情は、消えかかっていた。目がどんよりと曇り、酔っているのかと思ったが、それとはまた違う異様さだ。

ふと気になって、冷蔵庫を開けてみる。

中の食品はほとんど賞味期限切れ。いつ作ったかわからない料理もあった。冷凍庫にあるものは、冷凍焼けを起こしている。ろくに食事もとらず、ただただビールを開けていたことが想像された。

「こんなに飲んじゃダメだよ」

だって、と母はいろいろと弁解していたが、いきなり興奮して叫んだ。

「お父さんを殺したのは私だと思ってるんでしょう」

「そんなことは…」と口にして絶句した。
こういう精神状態の人に、何を言えばいいのか。すぐに否定の言葉が返せない。父の不調に気づかなかった母に、本心では怒りを感じていたからだ。

次の瞬間、母の言葉と大量の空き缶の意味が繋がった。母は緩慢な自殺を図ろうとしていたのだ。体を傷つけたり、薬を飲んだり、電車に飛び込んだりという死に方をする勇気はなかったのだろう。でも、そのまま生きていける気力も失われた。だったら、何も食べず、アルコール漬けになって死に至るほうがいいと考えたのかもしれない。