「追われてる!」

しかしその直後、すぐ後ろから、足音が聞こえてきました。

恐る恐る振り返れば、数歩後ろの距離に、その男がいます。うつむき気味で、帽子をかぶった長身の男が。

その瞬間、私の本能が、瞬間的に、最大限の警報を鳴らしました

いくら子供の足とはいえ、急いで階段を駆け上がっていたのです。いきなりこんなに近づいているなんておかしい。逃げないと。

私が走り出したその瞬間、男も走り出しました。

「追われてる!」

やっと理解したその時、私はすでに男に手を掴まれ、引き寄せられていました。男は数段上にいた私に跪くようにして抱きつき、私のお尻に顔を埋めてくるのです。知らない人がなんで私こんなことをするのかわからなくて、とにかく怖くて、頭が真っ白になりました。ただこれがダメなことだということはすぐにわかり、今すぐに逃げないと大変なことになると本能が叫びます。

男はそのまま、階段横の公園に、私を連れ込もうとしました。そこで私は、「やめてください!」と叫んで、男を突き飛ばして逃げました。

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お母さんに言えなかった

家まであと数分の道のり、生きた心地がしませんでした。大人の男から、走って逃げ切れるとは思っていません。それでも、逃げなくては。あまりに怖くて、後ろは振り向けませんでした。振り向いたら死ぬんだと、本気でそう思っていたのです。だから、実際に男が追ってきていたかはわかりません。追われていたら確実に捕まっていたでしょうから、追いかけてこなかったのかもしれません。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、もつれそうな足を必死で動かし、なんとか自宅のあるマンションまでたどり着きました。震える手でインターフォンを押すと、いつも通りお母さんが「おかえり」と言って、エントランスのドアを開けてくれます。

深呼吸してから乗ったエレベーターでは、このことをどうやってお母さんに言おうか、悩みました。あまり覚えていませんが、子供なりに気を遣って鼻水と涙をぬぐって平静を装おうとした気がします。

考えがまとまらないまま震える声で「ただいま」とドアを開けると、いつもどおりお母さんが出迎えてくれました。いつも通りの格好で、いつも通りの表情で。

「走って帰って来たの?」と聞かれました。どうやら、深呼吸したつもりでいても、相当息が上がっていたようです。そして、「今日は長く遊んだのね。お風呂入っちゃいなさい」と言われました。

本当はそこで、言おうと思ったのです。「変な男の人がいた」と。でも、どうしても口が動かない。

子供ながら、このことを言ったら大騒ぎになるし、お父さんもお母さんも悲しい思いをするというのはわかっていました。私のひと言で、こんな平穏な生活が壊れてしまうのではないかと、急に怖くなったのです。

そこで私は、いつもどおり笑顔で「パジャマ置いといてね」と答え、何も言わずにお風呂に入りました。