軍国主義者は排除せよ…追い込まれた講談社「窮余の一策」とその失敗

大衆は神である(77)
魚住 昭 プロフィール

“脱清治”への模索

新会社の名前は言い出しっぺの奈良が、自分の姓にちなんで飛鳥(あすか)株式会社と決めた。この会社には宮沢の弟で、のちに外交官となり西ドイツ大使を務めた泰(やすし)や、省一の満鉄時代の同期生ひとりも加わった。さながら飛鳥は、省一が私的に主宰する失業対策事業の会社だった。

彼らは毎週、目白邸に集まって省一と飛鳥の経営について相談したが、うまくいかなかった。物を売るにも材料がなかったのである。それで、竹細工を進駐軍のPX(酒保)に出したりしたが、これでは会社が成り立つはずもなく、1年でつぶれてしまった。その間、社員8〜9人の月給と経費はすべて省一が負担した。相当な出費である。いくら省一が野間家の跡継ぎだからといっても、それらの金を捻出するのは容易なことではなかったろう。

 

飛鳥が解散したあと、奈良が申し訳ないことをしたと謝った。すると省一は「あの失敗によって、出版に関連しないものに手を出してはいけないという教訓として、得るところがあった」と言ったので、負い目を感じていた奈良には、それが救いになったという。

たしかに飛鳥の失敗は、省一に重要な教訓をもたらした。彼が講談社の社長の座から離れてから模索したのは、飛鳥や松本林友、第一紙業を含めて、講談社の事業の多角化だった。

初代の清治が朝鮮での金山経営や不動産取引、含糖飲料「どりこの」や胃薬の「ハイゼ」の販売などに乗りだして事業を多角化していったことにならおうとしたのだろう。

もともと出版は当たりはずれの大きい事業である。本業が駄目なときは、他の事業の利益で補うといった多角経営でリスクヘッジしなければ、出版業を長期間つづけるのは難しい。清治はそのあたりの呼吸を心得た天才的経営者だった。

しかし、省一は清治とはちがう。戦前と戦後で時代も変わった。「出版に関連しないものに手を出してはいけない」という認識は、省一にとってかなり深刻なものだったろう。あとで詳しく述べるつもりだが、戦後の講談社の“脱清治”の歩みはそこから始まったのである。

註1 『野間省一伝』(講談社、1996年)より。

註2 同上参照。

註3 同。