軍国主義者は排除せよ…追い込まれた講談社「窮余の一策」とその失敗

大衆は神である(77)
魚住 昭 プロフィール

宮沢は大蔵省の官吏らしく、新円切り替えによってどこの家でも苦労していたから、このようにご馳走してくれるには新円が必要なはずで、野間家にはどういうわけか新円がたくさんあるらしいと不思議に思っていたようだ。

実は、野間家では株券やその他の有価証券を処分して新円を入手していたこともあるが、左衛が戦時中に物資が統制になり、切符制になる前に、将来物資が不足することを見越して、食料品はもとより、燃料や衣料にいたるまで備えておいてくれたので、戦後も物資にあまり苦労しなくてすんだという(註3)。

以下は『野間省一伝』からの引用である。

〈省一は外務省と大蔵省の前途有望な若い官吏から、いろいろと有益な商売上の情報を得るために彼らをもてなしたのではないかと誰しも思うのは当然で、講談社の社員の中にもそういう考え方をする者もいたが、専ら遊んでいるだけで、仕事の話などは一切しなかったようである。しかし、奈良は外務省の情報部渉外課に籍をおき、GHQの新聞出版課との連絡官だった(略)し、宮沢は池田勇人大蔵大臣の秘書になって、GHQとの折衝に立ち会っていたから、雑談の中にもGHQの動きなどが出たであろう。彼らは進駐軍の将校や軍属をも連れて来ることがあったから、講談社の将来を左右するGHQの動きに重大な関心を持っていた省一にとっては、GHQの動向を知ることが出来て有益だったとも考えられる。(略)省一の方から何か情報を得ようとするような質問は一切せず、商売のことも仕事のことも話題にはせず、ただただ二人の話を楽しげに聞きながら酒を飲んでいるだけで、聞き上手というのが省一に対する奈良と宮沢の印象である〉

 

旧三菱商事の社員を支援

昭和22年7月30日、奈良や宮沢の友人で三菱商事社員だった苫米地俊博(とまべち・としひろ)が初めて目白邸に顔を出している。奈良を通じて、省一から「遊びにこないか」と声をかけられたからである。奈良、宮沢、苫米地の3人は日米学生会議に参加した仲間だった。

実は、これより4週間ほど前の7月3日、三菱商事はGHQの財閥解体指令により、解散を命じられている。突然、職を失った社員たちは明日からの暮らしの道を模索しなければならなくなった。奈良が、

「いったいこれからどうするのだ。何かあてはあるのか」

と聞いたら、苫米地は、

「何もない。弱っている」

と答えた。そこで奈良は宮沢と相談して、野間氏に頼もうではないかということになった。2人は省一に「苫米地という男と部下数名が仕事を求めている。ついてはこの三菱グループ数人で貿易会社を起こそうと計画しているので支援していただけないか」と言った。

もとより奈良も宮沢も成算あってのことではない。当時は、商売をするにも第一に物がなかったので、その手当からしなければならない。うまくいくかどうか皆目見当がつかなかった。

それなのに、省一は二つ返事で「やりましょう」と応じ、「資金は自分が出す。経営は苫米地君に任せる」といった。あまりの決断の早さに奈良と宮沢は思わず顔を見合わせた。省一は苫米地らの救済のためだけでなく、何か国際的な仕事をしてみたいと考えていたらしい。

話が決まり、苫米地が目白邸に呼ばれたのが7月30日である。省一は苫米地にこう言った。

「講談社としても貿易会社の設立を考えてみたいので、旧三菱商事の社員で志を同じくする者があれば一緒にやってみないか」

苫米地はのちに、復活した三菱商事の副社長となるが、「野間さんには此の時初めてお目にかかったが、温顔の中にも人の心の奥を見抜くような大きな目をして居られたのが今でも強く印象に残って居る」(『追悼 野間省一』)と振り返っている。