軍国主義者は排除せよ…追い込まれた講談社「窮余の一策」とその失敗

大衆は神である(77)
魚住 昭 プロフィール

では、駒井徳三はなぜ昭和21年5月から翌年春にかけて目白邸に頻繁に宿泊しているのだろうか。考えられる理由は一つ。市ヶ谷で開かれていた極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)である。GHQ国際検察局にとって駒井は、満洲国誕生の経緯を知る生き証人だった。

そのため駒井は、検察局の厳しい尋問を繰り返し受けなければならなかっただろうし、裁判の傍聴に通う必要もあったのだろう。彼の目白邸宿泊は、東京裁判の始まりから検察側立証が終わるまでの期間とぴたり重なっているから、この推測にまちがいはないだろう。省一は、GHQの追及を受ける満鉄の大先輩に東京での宿を提供し、できるかぎりの便宜をはかったのである。

省一は、昭和36年に亡くなった駒井に関する一文で、そうした便宜をはかったことには一切触れず、駒井を「先生」と呼んで次のように書いている。

〈(駒井先生からは)戦後の講談社の経営と、野間家の在り方等についてなにくれとなくご相談申し上げ、ご教示を頂いた。静岡県岩淵に野間自由農学園(戦後、野間家の別荘・古渓荘に付設された農業教育施設)を開設したのも、戦後の復興再建にとって、木材資源開発の必要性にかんがみ、営林局当局と折衝して長野県松本市に松本林友木材株式会社を創立したのも先生のご教示によるものであった。また、現在、講談社の傍系会社として用紙代理店業を営んでいる第一紙業株式会社も先生のご指導によって発足したものである〉(註1)

 

昭和21年6月30日、満鉄の同期で、独身寮で隣合わせた増尾操が目白邸に来て、7月にも9、10、13、19日とつづけて来訪している。これは増尾が就職の依頼に来たもので、彼は翌年、省一が社長をつとめるキング音響の社員に採用された。

昭和21年10月には、省一がハルビンで下宿させてもらっていた満鉄時代の上司・本多静が来邸し18日に福井に帰っているが、11月5日にまた来邸して3日間宿泊し、23日にも来邸している。本多は講談社の傍系会社、豊国印刷の取締役になった。

このほかにも満鉄時代の先輩や同僚たちがよく訪ねて来て、省一は傍系会社の何らかの仕事を斡旋している(註2)。

宮沢喜一との接点

『野間省一伝』によると、この時期の省一に新たな人脈をつないだのは、奈良靖彦である。

靖彦は昭和14年に日米学生会議に東京商科大学(現・一橋大学)の学生として渡米し、同じく参加した東大生の宮沢喜一(みやざわ・きいち。のちの首相)と親しくなった。卒業後、靖彦は外務省に入り、宮沢は大蔵省の官吏になった。

靖彦は築地の料亭で省一と初めて会った半月後の1月31日、宮沢を省一に紹介し、三人で銀座で会食した。靖彦はその後、5月25日午後5時50分に1人の連れとともに目白邸に来て、その20分後に宮沢喜一が来邸している。省一は日米学生会議に参加した若い秀才たちの才気を愛し、遊びに来るようにいったのだろう。

昭和22年3月から、奈良が28年にロンドンに赴任するまでに、事務日誌の来客の項目には奈良の名が82回、宮沢の名が35回記されている。「奈良氏、他二名」などと記したもののなかには、宮沢が入っている可能性が高いから、宮沢は少なくとも35回以上来邸しているのは間違いない。

奈良と宮沢は始終一緒に訪ねてきて、午後6時前後から10時過ぎに帰るまで、野間家の女中たちは接待しなければならぬため、その姿を見ると「また来たァ」と声をあげていたといわれ、彼女らはこっそりと箒を逆さまに立てていたという話も残っている。

奈良の話では、物のない時代であり、若くて金もなかったから野間さんのところにたかりに行っていたのだというが、省一は彼らの話を聞くのがとても楽しいと言っていたらしい。