軍国主義者は排除せよ…追い込まれた講談社「窮余の一策」とその失敗

大衆は神である(77)
魚住 昭 プロフィール

難波田春夫の回想

目白邸の事務日誌によると、省一が社長を辞任した後も講談社の役員や田村年雄のような中堅幹部、省一と一緒に役員を退任した萱原宏一のような旧役員らが来邸している。彼らは省一と夕食をともにしながら懇談し、なかにはそのまま泊まっていく者もいた。

昭和21年2月10日には、右翼の経済学者として知られた難波田春夫(なにわだ・はるお)が目白邸を訪ねている。 難波田自身の回想によると、彼は敗戦後に公職を追放され、閉門蟄居(へいもんちっきょ)の身になったため、一面識もない省一を講談社に訪ね、「経済学研究所をやりたい」と頼みこんだ。

すると省一は「何のオブリゲーションもありません。ただ勉強さえしてくだされば結構です」と言って、講談社3階に「経済学研究所」の看板を掲げた一室を与えた。

難波田は戦中、『現代』の有力寄稿者で、「若くして壮大な国家学の体系を樹立した」などと言ってマスコミにもてはやされていた。それが、敗戦を境に「一夜にして様変わりし、四面楚歌の中におかれ(略)あんな男と付き合っていたら、占領軍からどんなお咎めがあるかも知れないと、誰も彼もが寄りつかなく」なっていた(『追悼 野間省一』所収の難波田の回想)。そんな学者に一室を提供するのは、当時の状況下では、ちょっと考えられないことだった。

難波田は「思い切って、当時のことを一言でいうと、私は野間省一さんにかくまわれて、占領下の異常状態のもとで『生きていた』のである」(同)と回顧している。

 

満洲人脈

さらに事務日誌を見ていこう。昭和21年5月15日夜、元満洲国国務院総務長官の駒井徳三(こまい・とくぞう。当時、群馬県名和村[現・伊勢崎市]在住)が目白邸に来て、18日まで宿泊し、省一と一緒に出掛けたりしている。駒井はその後も頻繁に来邸し、翌年春にかけて、月のうち半分以上、目白邸に宿泊している。

駒井は東北帝大農科大学(旧札幌農学校)を卒業後、南満洲鉄道に入社した。昭和6年の満洲事変勃発とともに関東軍顧問となり、満洲国建国工作を推進し、翌7年3月、満洲国の初代の国務院総務長官に就任した。いわば傀儡国家・満洲国の生みの親のひとりである。

『野間省一伝』によると、省一が初めて駒井と顔を合わせたのは、戦時中の昭和19年初頭、帝国ホテルで催された対外出版事業を目的とした大東亜出版株式会社創立総会でであった。

同年4月、満洲国の新京に、資本金300万円の半額を講談社が、残りを満洲国側が負担して中国文の出版物を出す「康徳(こうとく)印書館」が設立された際、斡旋の労をとったのが駒井であった(「康徳」とは満洲国の元号。昭和19年は康徳11年にあたる)。

康徳印書館には講談社から取締役など4人が送りこまれ、『小朋友』という雑誌を出すことになった。駒井は当時、兵庫県宝塚市で康徳学院(中国で経済建設に役立つ人材を育成する私塾)を運営していたが、戦局の拡大で募集難となったため19年に閉鎖し、学院の全職員を康徳印書館の設立準備のため満洲に送り込んだ。

敗戦によって康徳印書館は解散し、講談社から出向していた社員・荒木三作は昭和21年9月14日、康徳印書館の社員7人とともに目白邸に帰国の挨拶をしにきている。