軍国主義者は排除せよ…追い込まれた講談社「窮余の一策」とその失敗

大衆は神である(77)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業家・野間家が歩んできた激動の日々と、日本出版界の知られざる歴史を描き出す大河連載「大衆は神である」。

戦争が終わり、講談社は「粛清」「解散」こそ免れたものの、大物作家から執筆拒否を受けるなど、戦前・戦中の忠君愛国・軍国主義礼賛路線のツケを支払わされることとなった。戦争責任を追及され、社長を辞した野間省一の復帰までに、社内では何が起きていたのか?

第八章 再生──戦争責任(3)

宙ぶらりん

講談社の社長を辞任した省一は、昭和24年6月に社長として復帰するまでの3年半、いったい何を考え、何をしていたのだろうか。

講談社の履歴調書によると、省一は昭和21年7月、講談社の傍系会社・豊国(とよくに)印刷の社長となり、翌月には同じく傍系会社の日本録音工業の社長も兼務している。 日本録音工業は翌22年5月に改組し、講談社のレコード部と合体してキング音響となるのだが、省一はひきつづきキング音響の社長もつとめている。

同じ社長でも講談社本体とちがい、傍系会社の社長ぐらいなら、GHQや共産党勢力の神経を刺激するようなことはあるまいと判断していたのだろう。

 

昭和22年の出版界は公職追放令の改正により混乱をきわめている。公職追放令は〈日本人民を戦争に導いた軍国主義者の権力および影響力を永遠に除去する〉というポツダム宣言の精神に基づき、前年(昭和21年)1月に発令されたものだが、翌22年1月の改正で「公職」の範囲は広がり、追放対象は財界、言論界、地方政界にも拡大された。

同年6月の閣議で言論界の該当団体が決まった。新聞社、通信社、出版社など368団体で、そのなかに講談社も含まれた。さらに翌23年はじめ、講談社関係では野間左衛、長谷川卓郎、高木義賢、淵田忠良、加藤謙一、橋本求の六人が追放該当者として発表された。

省一はその中に入っていない。が、公職追放の仮指定を受け、該当者になるかどうかを調査する対象とされた。どっちつかずの宙ぶらりんの状態におかれたのである。

この前後の省一の動向を伝える証言がいくつかあるので、それを紹介しておく。

一人目は、若手外務官僚の奈良靖彦(なら・やすひこ。講談社前常務・奈良静馬[しずま]の長男)である。

靖彦は、父の静馬が講談社常務を辞めて4日後の昭和21年1月15日、父とともに築地の料亭に招かれ、初めて省一に会った。靖彦は、省一が「若輩であるのに先ず驚き、これが嵐の中の講談社を担って行く人物なのかとそのヌーボーぶりに驚き、話すことにも精彩がなく、我慢してつき合って来たと思われる父親に感心したようだ」(『野間省一伝』)ったという。

靖彦は後にそれが「全然見当外れだった」ことに気づくのだが、省一は築地での会合から11日後に講談社の社長の座を降りる。靖彦と会ったときは、静馬につづいて自分も辞任するかどうか迷っていた最中だろうから、「精彩」がなかったのも致し方ないのかもしれない。