(C)CBCJ

フランシスコ法王との「奇跡的の瞬間」〜「法王は下町言葉で語る!」

アルゼンチン司教が語るトレビアの数々

フランシスコ教皇は、長崎・広島で「核廃絶を訴えるメッセージ」を世界の人々に発した。教皇の「核反対」の強い意志を感じたが、語られたのはスペイン語だった。

「今回すべてがスペイン語だったのは、自由に使える話し言葉でジョークにしてしまえることではない(重要な問題)とお考えになったからでは」とさかもと未明氏は言う。

教皇はバチカンでは公式にイタリア語を使を使うこともあるし、英語もしゃべるが、本当の言葉のニュアンスが分かる数少ない人物が日本にいる。

「バチカンで泣いてしまいました!」

「バチカンに司教の服を作りに行ったとき、なんとかして教皇に会いたくて、『サンタマルタ(小聖堂)のミサに行きたいんです。アルゼンチン人なので』と、教皇の愛弟子の方に、出国前にお願いしたんですね。そしたら、わたしのアルゼンチンでの名前はマリオなんですけれど、「マリオに、8月1日から朝の謁見を開始するから、謁見に来て私の横に座るようにいってくれ」とお返事が来たと言われて、、、。実際にお目にかかったとき、『マリオ、、、ヤマノウチか?』と、フルネームで呼ばれたときは泣いてしまいました

そう語るのは、アルゼンチンで30年以上を過ごし、そこで神父となったマリオ・山野内倫明さいたま教区司教だ。

教皇との写真を手にする山野内司教(写真=さかもと未明)

マリオ山野内司教は1955年大分県生まれ。

父親は大分県の電電公社に勤めるクリスチャンだった。そこで電話交換手として働いていた女性と出会い、彼女も信徒となって、臼杵教会で結婚。長男のマリオ司教はやはり大分県の佐伯教会で最初の洗礼を受けた。佐伯教会の最初の洗礼者だった。
  
父親は病弱だったが、非常に健康だった母親は次々と子供に恵まれる。が、そのことに対する職場の心無い言葉や、より深い「生きる意味」を求める思いがきっかけで、父親はアルゼンチンにわたることを決意した。後に母親が語ったところによると、父親の「頭に虫が入った(神の言葉を聞いた)」のだという。

神の思し召しに従い、異国に渡り、大地に根差して生きていきたいという父の望みに従い、一家はアルゼンチンに移住。それは1964年、山野内司教が8歳の時であった。

一家はアルゼンチンに着いた後、まず飛行機と船でメンドーサにわたり、それからバスで1100キロの道のりを経てメディアという土地についた。まだ誰も知己のいない土地に降り立った時、カトリックの宣教師に偶然巡り合う

 

それを天のお導きと思い、一家はその土地に住み着き、アメリカの銀行から融資を受けて農業を始めた。 

しかし、それはうまくいかない。 

一家はサレジオの家に救いを求め、新たに野菜を作り、鶏を飼い、再起を図った。身体の弱かった父であるのに、天からの使命を確信して励んだためか寝込むことなく働き、雨が一年に一日しか降らないような土地でやがて見事な野菜を作れるようになる。
 
子供は10人で、末の娘は夭折するが、他の男の子は元気に育ち、そのうちの4人は神父となった。とはいえ、山野内司教は移住当初、ラテン民族特有のスキンシップを重視するコミュニケーションに馴染めず、いじめも受けた。

「山野内は冷たい、大理石の心だ」と言われ、悩んだという。

けれど良き理解者となってくれた校長や神父らの庇護と理解のもと、やがて「身体と魂の入れ替え」を体験。アルゼンチンの風土に馴染むようになる。

コルドバの小神学校に進み、そこで神学生となり、29歳で司祭に叙階。

サバティカルという一年の休暇の時に日本を訪れたのをきっかけに、日本の教会との交流も始まり、1996年42歳で帰国。

そのまま日本の宣教に尽力。2018年9月、フランシスコ教皇の元、さいたま教区司教に叙階された。フランシスコ法皇の話すアルゼンチンの言葉をよく理解する日本で数少ない司教として注目されている