絵も見てゆこう。
渋谷の絵のあと、進路希望のプリントを眺めながら八虎は、「今さら 絵の道選べるほど/バカじゃねえんだよな」と自分に言い聞かせる。しかしラクガキを止めることができない彼は、自室の窓から見える街並みをスケッチしつつ、以下の倒錯的な認識を提示する。
このシークエンスにおいて、彼は「人より高く飛ぶ」には「苦しい」勉強が必要で、「楽しい」お絵描きなど「怠慢」だと断罪しながら、皮肉にも、まさしく絵を描くことの楽しさによって羽ばたく。この飛翔というモチーフは、すでに渋谷の絵を描いたときに現れており、このあとも繰りかえされることになる。
これらのコマは、「将来性」に直結した「苦しい勉強」という「世間的な価値」の重力から、八虎を解放している。渋谷の絵が理解されたとき八虎が泣いてしまうのは、絵を褒められた嬉しさ以上に、「苦しさ」ではなく「楽しさ」で飛んでもいいのだということ、その自由の可能性に触れた感動が大きいように思われる。その涙は彼にかわって、俺はいままで苦しかったんだ、という弱音を吐露するのだ。
美形の龍二にたいして「美大行ったってどうせ将来性ねーんだから/その顔いかしてタマノコシ狙うほうがまだマシかもよ」と言う八虎のハラスメントは、明確に家父長イデオロギーに染まっている。だがそれは、「お絵描き」の道など家父長的な責任の放棄でしかないという自己抑制として、彼自身を縛りつけてもいるのだ。
「ちゃんとした」大学への進学のみを「正しい」進路とみなす価値観にしたがえば、次に控えているのは、さしずめ一流企業への就職であるだろう。男性性の重圧はそれ以外の可能性を「怠慢」と棄却することで、将来の選択肢どころか、少年たちの思考と感性をも、ごく狭い範囲へと制限しているのである。