『海』に描かれたモガたち

甲子園球児もコーヒーも…船でやってきた! 船と海が支えた人と文化

広報雑誌『海』のモダニズム

人びとを海へといざなうメディア

かつて『』という名の広報雑誌があった。関東大震災後の1924年7月、大阪商船株式会社より創刊され、1943年8月の終刊まで、約20年にわたって144冊が発行された。大阪商船は、瀬戸内の群小船主55名が93隻の船を現物出資し、1884年に創立された海運会社である。日清日露戦争を経て植民地航路や北米航路へ、第一次世界大戦後には欧州航路へ進出し、1920年には南米・世界一周航路を開設して日本のフラッグ・キャリアに成長しつつあった。

 

『海』の創刊号は巻頭で、次のように人びとを海へいざなう。

出ませう、海外へ出ませう!、若し百万人の移住に成功すれば、我国富は年々倍加しませう(…)
眼を海外にむけて下さい、更に歩を諸国に移して下さい、其準備として、あらゆる機会に於て常に親しんで下さい(…)船は我国民の生命であり、国威発揚の大黒柱でありますから。

「海外」という言葉が示すように、日本から外国へ行くには海を渡るしかなかった。航空機が未発達の時代、日本列島の住民にとって、船は外国に行くための唯一の手段であり、海の向こうを感じさせるメディアであった。

明治以降、日本人は近代化を進めるためにさかんに洋行するが、鴎外も漱石も、藤村も荷風も、野口英世も北里柴三郎も、いや昭和天皇でさえも、船に乗らなければヨーロッパはおろか隣国にさえ行けなかったのである。

19世紀末から20世紀最初の数十年は、汽船による大航海時代であった。ノルマンディ、クイーン・メリー、ブレーメン、プレジデント・フーバーといった欧米各国の豪華船が大洋を行き来した当時にあって、船は国力とモダニズムのシンボルであった。

そんな時代、『海』は、一海運会社の広告雑誌であったが、大胆なデザインと多くの海外情報を満載した記事によって大航海の時代の到来を告げ、読者を海へ船旅へと牽引するタグボートの役割を果たした。

つまり、『海』を通じて、世界大に拡がった当時の人とモノと海とのかかわりや船をめぐる移動・文化・芸術の動きを、想像と思考を存分に遊ばせながら読み取ることができるのである。

『海』の表紙

日本最大都市「大阪」のモダニズム

『海』が創刊された1924年は、さまざまな意味で注目すべき年である。1月には中国で国共合作がなり、イギリスでは初の労働党内閣が成立した。4月にはイタリア総選挙でファシスト党が勝利し、ムッソリーニが政権を掌握している。国内では、4月26日に、皇太子迪宮裕仁(後の昭和天皇)と女王良子(後の香淳皇后)が結婚し、震災から復興途上の帝都東京で市民が喝采した。

この年、アメリカで新移民法が成立し、日本からの移民が禁止された。現在と異なり、過剰人口に悩まされた日本政府は、南米への移民の国策化に乗り出した。これを承け、第一次世界大戦後の海運不況のなか、1920年に南米航路を世界一周航路に延伸した大阪商船は、社運を賭して移民船航路経営に邁進していく。1925年12月には、日本最初の航洋型ディーゼル貨客船「さんとす丸」を就航させ、姉妹船「らぷらた丸」「もんてびでお丸」を投入する。

一方、同年4月、大阪市の第2次市域拡張によって、人口211万人の日本最大の都市「大大阪」が出現する 。これは、東京市の199万人を抜き、名古屋市の77万人よりはるかに多かった。中之島に大阪商船の本社ダイビルが竣工し、銀杏並木の御堂筋が現れ、大丸やそごう百貨店の近代建築をバックにモボやモガが闊歩した。『海』に描かれたモダニズムの背景にあるのは、大大阪の繁栄であった。

大阪パノラマ地図(1923)。大阪商船の本社が富島町にあった時代。西側に、外国人居留地のあった「川口」の地名が見える。「水の都」大阪―幾隻もの船が係留されている。