撃沈された軍艦から大海に放り出された乗組員たち「奇跡の生還劇」!

一人の男の統率力が多くの命を救った
神立 尚紀 プロフィール

人間の肉体は強いが、精神的ショックには極めて脆い

先任将校・小林大尉は戦後、警察予備隊を経て陸上自衛隊に入隊、1等陸佐で退官後は東京近郊で薬局を営んだが、自らの戦争体験や「名取」短艇隊について表に出て語ることの一切ないまま、平成5(1993)年に亡くなった。

松永はその後、空母「葛城」、内海海軍航空隊(松山基地)、岩国海軍航空隊の通信長を務め、岩国基地で終戦を迎えた。

「終戦は、玉音放送のそのときまで知りませんでした。いままでの流れでこうなったと、べつに感慨もなかったですね」

 

戦後、結婚し、富子夫人の実家の銃砲店、続いて親和銀行に勤める傍ら、「名取」沈没時の体験から、ライフワークとして世界の海難史の研究を始めた。

「戦時、平時を問わず、毎年、世界各地で、大勢の人たちが海難事故に出会い、相当数の人たちが死亡している。そしてその原因が、海難事故そのものよりも、前途を悲観しての自殺とか、仲間内の争いによるものが、相当数にのぼっていることを知りました。人間は、ビタミンやカロリーなどの不足による肉体的条件では、世間の常識を上回って生き続けることもできる。その反面、自信を失ったり、失望したりの精神的ショックには、極めて脆いものなんですね。『名取』短艇隊の成功は、先任将校の早期の『決断』とリーダーシップ、さらにはいったんは反対した隊員たちが、断行と決定するや命を懸けて漕ぎ続けたからこそと、改めて実感しました」

さらに松永は、

「戦友やクラスメートが大勢死んだから、彼らのことを書き残さなきゃいかんと思って」

と、回想記の執筆に打ち込んだ。「名取」短艇隊のことを綴った『先任将校』(光人社・1984年)を出版、それが機縁となって、「名取」を撃沈した米潜水艦「ハードヘッド」の艦長、フィッツヒュー・マックマスター元大佐と、恩讐を超えて会うこともできた。

晩年は、歴史、戦史を勉強する若い世代とも積極的に交わり、「松永師匠」と、親しみを込めて呼ばれていた。父が松永貞市海軍中将であることは先に述べたが、松永の三女は、「iモードの生みの親」として一躍、ケータイ時代の「時の人」となった松永真理である。講演やパーティーでのスピーチのさいには、

「有名な父と娘にはさまれて、何の取柄もない爺でございます」

と言って、笑いをとるのがつねだった。

死を覚悟してのちの時間をどう過ごすか

若い人に対する松永のまなざしは、次代を担う人たちへの期待に満ちていて、さながら慈父のようだった。自らの失敗談を教訓に、ときにユーモアをまじえて、佐賀弁で熱く語る。

――少尉に任官して戦艦「榛名」に赴任途中、汽車のなかで声をかけてきた、海軍ファンとおぼしき背広姿の小父さんを適当にあしらっていると、その小父さんが同じ内火艇の、しかも上級者の席に乗り込んできた。「困るなあ、小父さん」とそこからどいてもらい、艦に乗って、さて副長に着任の申告をしようと副長室を訪ねたら、先ほどの小父さんがいる。「なんだ小父さん、副長の知り合いか。副長はどこに行かれたですか」。すると小父さん、「副長は私だよ」……という話。

――「死ぬことはむずかしい。だけど死ぬまでの時間をどう過ごすかはもっとむずかしい」
……昭和19年末、空母「葛城」に乗艦して、次の出撃では死を覚悟はしていたが、このまま25歳の独身者として戦死すれば、自分を知る者が肉親以外にはいなくなってしまう。そこで考え出した方法は、友人や家族の好意をその人たちの面前で踏みにじって、自分のことを記憶してもらおうという方法。新婚のクラスメート宅に、夜ごと押しかけては迷惑をかけようとするのだが、あにはからんや、やることなすこと善意に受け取られ、かえって感謝されてしまう。やがて潜水艦乗りのクラスメートは出撃し、奥さんは男の子を出産する。松永が、父親代わりに赤ちゃんを抱きに行くことになった……という話。

――同じ時期、愛媛県松山の水交社(海軍士官の社交、娯楽、宿泊施設)で、「若様」になりすまして大歓待を受けた。隠し切れない佐賀弁は、婆やの言葉を真似していることにした。クスリが利きすぎて、松永が「若様」だと思い込んでいる女将は、何を言っても恐縮するばかり。一緒に行ったクラスメートが、その後も「若様」のことばかり尋ねられるのに閉口して、「若様は戦死したよ」と言った。その後、同じ水交社に泊まった父・松永貞市中将が、女将に、「先頃、お客様によく似た若様が、この部屋にお泊りになりました」と聞かされ、佐賀弁というので息子のことだとピンときたが、「その若様も戦死されたそうです」――ほんのいたずら心でやったことが、父を終戦まで苦しめてしまった……という話。

――戦後、海上自衛隊幹部候補生の遠洋航海に、新聞社の特派員の肩書きで同行したときのこと、フランスのご婦人方と歓談しているのを見た人から、「松永さんはフランス語もお出来になるのですか?」と聞かれ、「NHKのフランス語講座を聴いてるからね、あの半分はわかる」と答えて、「半分わかれば大したもんだ」と感心された……という話。これには、ナニ、NHKのフランス語講座、中身の半分は日本語なんだよ、というオチがついている。

海軍のことを語り出すと止まらない。だが、松永の話を聞く若い人たちのなかには、じっさいの戦闘場面そのものの話になると、とたんに口が重くなるのを、敏感に感じ取る人もいた。そんな実体験の重みに裏打ちされたユーモアだからこそ、聴く者の心を掴んで離さなかった。

乗艦が3度も撃沈されたので、松永の手元には、自らの海軍時代の写真は一枚も残っていなかった。次世代に体験を語り伝えることこそが、松永にとって唯一の青春の証だったのだ。