撃沈された軍艦から大海に放り出された乗組員たち「奇跡の生還劇」!

一人の男の統率力が多くの命を救った
神立 尚紀 プロフィール

神頼みをせず、部下の意見を聞き、しかもブレない

1日2枚の乾パンと、スコールの水だけを口にしながら、炎暑の昼は艇底で休み、夜は10時間の漕走という、自ら課した過酷な日課に、彼らは黙々と耐えた。しかし、隊員たちの表情には日に日に疲労の色が濃くなり、一部には不安と不信の念に駆られた反乱の気配も見えてくるようになった。

 

「酷暑の海上、狭いカッターの中で、大勢が押し合いへし合いしている。しかもほとんど飲まず食わずという、人間生存の極限状態です。前途に、明るい見通しはまったくない。 目に見える敵に対して敵愾心を起こさせることはたやすいが、フィリピン行きという、敵の現れない作業に闘志を起こさせ、それを持続することはけっして生易しいことではありませんでした。

それができたのは、短艇隊の頑張りはもちろんですが、先人たちの教えのおかげだと思っています。私たちは、『スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂。これぞ船乗り』と教えられました。また、『アングルバーで何ができるか、フレキシブルワイヤーでなくてはならない』ということも言われていました。これは、鉄の棒と鋼索のことで、硬い鉄の棒より、一見弱そうに見える鋼索のほうが、じつは自在にものを吊るしたり動かしたりできることの例えです。いずれも精神の柔軟性の大切さを物語っているのです」

小林大尉はその間、つねに悠然と構えて不安を表に出すことはなかった。また、当時の海軍で半ば慣用句のように使われた「天佑神助を確信し」というような、神頼みともとれる言葉はいっさい使わず、自らの力でフィリピンへ漕ぎ着くのだという姿勢を曲げなかった。希望を持たせるための嘘や気休めも言わない。情におぼれず、かといってけっして強権的ではなく、「各人の被服で日除けのテントをつくっては」とか、「兵員がボタン止めのため、帽子に差して持っている縫い針を曲げて釣り針にし、漁師班を編成してはどうか」などの、部下の意見にもよく耳を傾けた。ピンチに陥ると、部下は必ずリーダーの顔色を見る。泰然として芯のブレない小林大尉の態度に、部下たちの心は自然と一つにまとまった。

「名取」先任将校・小林英一大尉(1917-1993)

そして、「名取」沈没から13日めの8月30日、短艇隊は最後まで整然と隊伍を組んだまま、スリガオの陸岸に到達した。まさに「天は自ら助くる者を助く」の言葉通り、自ら勝ち取った奇跡だった。防衛省防衛研究所に残る『軍艦名取戦闘詳報』によると、生存者は准士官以上22名、下士官兵169名(うち傭人2名)、戦傷者下士官兵2名、とある。

漕走するカッター。「名取」沈没後はこの小さなカッターに1隻あたり60名もの生存者がひしめきながら、600キロ近くを漕ぎ切った

――しかし、ときあたかもマリアナ陥落直後、フィリピン決戦の直前で、「名取」短艇隊のその後は、そのままハッピーエンドとはならなかった。松永ら士官のうち6名は、海軍省からの帰還命令によりフィリピンを脱出したが、残る187名の隊員の大半は現地に残されたまま陸戦隊に組み入れられ、ほどなく米軍の大攻略部隊の上陸を迎える。そして慣れない陸上戦闘の末、そのほとんどが戦死した。せっかく奇跡的な生還を果たしたのに、戦争とは、かくも非情なものだった。

内火艇やゴムボートで脱出し、短艇隊とはぐれて漂流した乗組員の多くは、フィリピン攻略に向かう米艦艇に救助され、捕虜となった。捕虜となったのは、ゴムボートの3名と、内火艇の41名である。ゴムボートは14日間、内火艇は26日間にわたって漂流を続け、その間に死亡した者も15名におよんだという。

自力で陸岸にたどり着きながら、そのほとんどが日本に還ることなく、フィリピンで戦死した短艇隊と、米軍捕虜になって米本土やニュージーランドの収容所に送られて、戦後、生還した者たち。そのどちらが幸運だったかは、軽々に結論を出すべきではないと思える。乗艦沈没という事態に直面し、生死の境のまさに渦中にあった者たちは、目の前の試練に、それぞれ無我夢中で立ち向かうしかなかったのだ。