撃沈された軍艦から大海に放り出された乗組員たち「奇跡の生還劇」!

一人の男の統率力が多くの命を救った
神立 尚紀 プロフィール

一人で決断し、反論も条理を尽くして説得

「総員退艦の命令に、上甲板に集まった乗組員たちは、次々と海に飛び込みました。艦長はその様子を自分の目で確かめた上で、艦長休憩室に入り、内側から留金(ケッチ)をかけられました。ぐずぐずしてる場合ではない。われわれも相次いで艦橋を下りて海に入りました。艦の沈没の渦に巻き込まれないようにと、急いで舷側から50メートルほど離れ、振り返ったら、『名取』は艦尾を左に振って、逆立ちするような格好で沈んでいきました」

 

「名取」が沈没したのは、サマール島の東方約300浬、北緯12度29分、東経128度49分の、太平洋のただなかである。周囲に救助艦の1隻もいない大海原で、内火艇(発動機のついた小型舟艇)2隻、カッター3隻、ゴムボートや急造の筏〈いかだ〉多数、人数にして300名ほどの生存者が放り出された形になった。海は時化〈しけ〉ていた。

「名取」沈没時の被害、浸水状況図(防衛省防衛研究所所蔵『軍艦名取戦闘詳報』より)
軽巡「名取」沈没地点概図

松永が、やっとの思いでカッターに泳ぎ着くと、航海長・小林英一大尉も続いて同じカッターに上がってきた。艦長は「名取」とともに沈み、生存者のなかに副長の姿もなかったので、最上級者である小林大尉が先任将校として指揮をとることを宣言し、松永がそれを手旗信号で各艇に伝えた。しかしほどなく、内火艇のうち1隻は損傷のため沈没、荒天のためもう1隻の内火艇や筏とも離ればなれになってしまう。

2日めに海軍の一式陸上攻撃機が頭上に飛来、駆逐艦が救助に向かっている旨の通信文を投下していった。海が凪〈な〉いだときに、泳いでいた者や筏で漂流していた者を救助すると、カッターの定員45名はたちまちオーバーし、各艇とも60名以上がひしめき合うようになった。

軍艦に搭載されたカッター(海軍省公表写真)

救援の駆逐艦は、待てど暮らせど姿を現さない。漂流3日め、小林大尉は、カッター3隻を集めて、自力でフィリピンを目指すことを命じた。

「命令。軍艦「名取」短艇隊は本夕一九〇〇(午後7時)この地点を出発し、橈漕〈とうそう〉、帆走をもって、フィリピン群島東方海岸に向かう。所要日数15日間、食糧は30日間食い延ばせ。誓って成功を期す」

「そんなことはできません、それは無茶です」との声があちこちで起こった。救助艦を待つべき、との声もあった。なかには、漁師の息子の下士官からの、「海で遭難した場合は、みだりに動くべきではない」という、古くからの言い伝えをもとにした反論もあった。

「それを、小林大尉は条理を尽して説得されたのです」

と松永。「名取」の沈没現場にカッター3隻が残っていて、相当数の生存者がいたことは、味方の飛行機が確認していった。木でできたカッターは絶対に沈むことはないというのは、海軍の常識である。もし俺たちが陸岸にたどり着かなければ、「名取」乗組員600名総員は「戦死」ではなく「行方不明」として認定される(「行方不明」の扱いでは、どこかで生きていたり捕虜となった可能性も考慮し、戦死認定、公報が大幅に遅れ、遺族への通知や給付金も概ね1年以上は遅くなる)。俺たちがだらしないために、戦死者まで巻き込んで行方不明にしては、艦と運命をともにした久保田艦長以下の戦友に申し訳ないじゃないか。それは、「命令」というよりも諭すような口ぶりだった。

「すると、さっきまで反対していた下士官が、行方不明では死んでも死にきれません。フィリピンに連れて行ってください、と言い出したのを皮切りに、そうだそうだ、頑張るぞ、という声が次々に起こってきました。飲まず食わずでもやらなきゃいかん、その結果、もし戦死することになっても、いまの若い人には理解できない感覚でしょうが、靖国神社に祀られるんだからという、ひとつの安堵感があったんです」

「行方不明になるな」――これを合言葉として、「名取」短艇隊の必死の漕走が始まった。とはいえ、各カッターには磁石や六分儀などの航海用具は何もない。少々の食糧以外は、医薬品はおろか真水も積んでいない。当時の腕時計は防水ではないから、各自が身につけていた時計も次々に止まってしまう。このような条件での300浬もの漕走は、それ自体が海事常識への挑戦といえた。

彼らは、兵学校で習った航海術や気象学はもとより、ちょっとした格言や生活の知恵など、あらん限りの知識を持ち寄って、それを極力、科学的、合理的に判断し、目の前の困難と闘った。と同時に、いち早く指揮系統を確立し、軍隊としてのけじめを明確にしたことも、先の予測のつかない長い漕走にはプラスに働いた。各艇の若い指揮官たちは、上陸したら賞品を与える約束でクイズを出すなどして、兵員たちの気持ちが切れないよう、士気を維持することにつとめた。

「南洋で、気温が低いわけではありませんが、海が時化ると、風が濡れた体から体温を奪っていく。夜になると特に寒さが骨身にしみます。男同士が抱き合って、互いの体温で温め合いながら夜明けを待ったこともありました。ようやく時化もおさまり、夜が明ければ、こんどは容赦ない熱帯の太陽に照らされる。直射光と凪いだ海からの反射光にさらされて、服からはみ出た手足は、暑いというより、針で刺されるように激しく痛みました。私はそれまで、4年の艦隊勤務を経験し、海のことはよく承知しているつもりでしたが、軍艦の上から見おろしていた海と、カッターから眺める海は、まったくの別物でした」

全てのものから見放されたかのような大海原で、夜になると夜光虫だけが、艇のまわりで淡い光を放っていた。