撃沈された軍艦から大海に放り出された乗組員たち「奇跡の生還劇」!

一人の男の統率力が多くの命を救った
神立 尚紀 プロフィール

「戦争というのは、経験するほど恐ろしくなる」

松永は大正8(1919)年、佐賀県に生まれた。父は、開戦劈頭、航行中の戦艦を航空機による攻撃だけで沈めた世界史上初の戦い「マレー沖海戦」で、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を撃沈した第二十二航空戦隊司令官として勇名を馳せた、のちの海軍中将・松永貞市である。

松永市郎大尉(左写真は海軍兵学校生徒時代。右写真撮影/神立尚紀)
 

市郎は、父の後を追って海軍兵学校を志望、3度めの受験でようやく合格し、昭和12(1937)年、六十八期生として入校。卒業後はずっと艦隊勤務で、練習巡洋艦「香取」を皮切りに、戦艦「陸奥」(高角砲分隊士)を経て、戦艦「榛名」(副長附中甲板士官)に乗組み、ここで昭和16(1941)年12月8日の開戦を迎えた。

松永市郎の海軍兵学校生徒時代。海軍時代の写真は本人の手元に1枚もなく、同期生から提供を受けたもの

「開戦時、『榛名』は仏印(ベトナム)に上陸する陸軍部隊を支援する任務に従事しましたが、イギリス海軍が『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』をシンガポールに派遣したとの情報が入った。新鋭の『プリンス・オブ・ウェールズ』も手ごわそうだが、『レパルス』の主砲は『榛名』の36センチ砲より射程の大きい38センチ砲ですから、これは海戦になったらかなわないと、士官室は悲壮な空気でしたよ。それを父の部隊が飛行機で沈めてくれた。あれはありがたかったですね」

松永が開戦時に乗組んでいた戦艦「榛名」

次に乗組んだ重巡洋艦「古鷹」(側的照射分隊長)では、敵重巡4隻を撃沈する一方的勝利をおさめた第一次ソロモン海戦(昭和17〈1942〉年8月8日)と、一方的敗北を喫したサボ島沖海戦(同年10月11日)の両方に参加。サボ島沖海戦のさいには乗艦「古鷹」が撃沈され、暗夜の海を泳いで救助されている。

重巡洋艦「古鷹」。松永はこの艦に乗り、ソロモン諸島で戦い、1942年10月11日、サボ島沖海戦で撃沈された際は暗夜の海を漂流した

その後、第六艦隊司令部暗号長としてトラック島にあった「香取」で勤務、約1年後の昭和18(1943)年11月、軽巡洋艦「那珂」通信長となる。ところが、その「那珂」も、昭和19(1944)年2月17日、トラック島沖で敵機動部隊艦上機の大空襲を受け、艦体が真っ二つになって撃沈された。

松永が通信長を務めた軽巡洋艦「那珂」。1944年2月17日、米軍機の空襲で撃沈される

松永はまたも運よく救助されたが、

「初陣は無我夢中のうちに終わりますが、戦争というのは、経験するほど恐ろしくなっていくものです」

と、回想する。休む間もなく「名取」に転勤、ここでも通信長となる。すでに戦況は決定的に不利となり、太平洋の制空権も制海権も、ほとんど敵に奪われていた。前線に補給をしようにも、速力の遅い輸送船では目的地に到着することすらおぼつかなく、代わりに巡洋艦や駆逐艦などの戦闘用艦艇までも輸送任務に投入せざるを得なくなっていた。

「名取」も、数度にわたってフィリピン-パラオ間の人員、物資の輸送任務についたが、そんななか、敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、撃沈されたのだ。松永にとってはこれが3度めとなる、乗艦の沈没だった。